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 まず視線が奪われる。
 
 次に大きな手のひらが右頬をそっと傾けてくる。
 
 その後に彼の右手が自分の前髪を優しく撫でる。
 
 そして「眼を瞑って」と囁いてきてくれる。
 
 その通りにしてから少しして、まだ?と思わせる瞬間に口唇が触れあうのだ。










他の人に気付かないくらい
Presented by 三式









 「ぁぅあぁぁぁぁぁ…………っ」


 なんて、妄想をした。

 久美は弾かれたように顔を真っ赤にして俯いた。幸い、気付いている人はいない。わきゃーと身悶える様は小動物を思わせて可愛らしい。
 久美の周りは静かだ。耳を澄ませば無機質な音と共に小鳥がさえずる鳴き声が聴こえてきそうである。
 天候は穏やかだ。大きな窓からは初夏の日差しが射し込んできて、暖かい。もうすぐ夏がやってきそうな、そんなことを思わせる青空があった。
 カリカリとペンがノートを走る音が絶え間なく続く。誰もが無言で黙々と黒板とノートの間を繰り返し見ては白紙を染めていく。
 顔に紅葉を散らす彼女は顔を上げた。周りの同級生とは正反対に彼女のノートは真っ白だった。文字なんてひとつも書かれていない。
 代わりにそれの上に置いてある小さなメモ帳には細かい文字がびっしりだった。右下に描かれているウサギの姿が台無しである。

 はっとしたように久美は顔を上げて後ろを振り返った。
 久美の座席は窓際の列の前から二つ目である。死角と呼ぶには一つ前よりは多少劣るがそれでも教師の視界にはあまり入らない場所である。
 辺りは無機質な音が囁くように聞こえてくるだけで穏やかだ。久美に注意を向けている人はいなかった。
 唯一気付いていそうなこれまた一つ後ろの秀介はお日様と春風のコンボに打ちのめされていた。つまるところ睡眠学習中である。


 「……はぁ」


 一つ、大きなため息を吐いた。
 
 現在は五時限目の授業中である。科目は物理。久美の中では―――まったくもう、やってられないわ―――な授業の一つである。
 さっきまで妄想の主格の一つであった右頬を手のひらで押さえ、肘を立てて窓の外の景色を覗く。
 久美と秀介が在籍するクラスの位置は学校でも評判の場所にある。窓は校庭とは反対側であるがすぐ近くに山と桜並木が視界一杯に広がっている。この場所は特に教師に評判が良い。春になればソメイヨシノが満開で、夏になれば青々とした若葉が爽やかで、秋になれば山の紅葉が鮮やかで、冬になれば辺りを覆う銀世界が広がって。季節の変わり目はカレンダーを見るよりもこちらのほうが正確だという教師も少なくなかった。
 
 耳を澄ますとペンの音だけではなく、すぐ後ろから規則正しい呼吸音が聞こえてくる。
 
 ―――幸せそうに寝てる。

 何の心配事もなさそうに眠る彼の寝顔を思い浮かべる。
 一般男子より整った顔が子供のように眠っている。たまに動かす顔の所為で癖のない髪が揺れる。その長い髪が鼻を掠め、秀介はくすぐったそうにする。

 髪……切らないのかな。目にかかってると視力下がるから切って欲しいんだけど……。
 今度いい美容院とか探してみようかな。

 ふるふると顔を振る秀介。その仕草が可愛くて自然と笑みがこぼれた。

 やっぱり紹介するのはやめようかとも考え、意地悪いなぁと自分を叱咤した。
 で、でもでも探すっていうのはデートに誘うときのいい文句になるしっ。

 ぼんっと頭の中に一つの単語が浮かぶ。

 デート。そう、デートである。
 久美の肘下にあるメモ帳の一ページ。それは、まさに明日のデートの内容が書かれたものだった。
 明日は学校は午前授業である。いつもより放課後の時間が余るからどこかに行こうか、という話のくだりで秀介と久美は世間一般で言うデートをすることになった。
 無論、学校帰り。家になぞ帰らない。
 
 制服デート。
 
 なんだか健全なようでいやらしさを感じさせる単語である。

 そんなことは置いておいて。
 久美は柔らかな陽気を浴びながら来たるべき明日のデートに思いを馳せた。

 予想せずとも明日も今日と同じような暖かな天候になるのだろう。
 翌日は午前授業である。ということで妙に浮き足立つ周りのクラスメイトたちと同じく、自分も彼も午後を心待ちにして過ごす。
 退屈だな、そうだね、早く学校終わらないかな。そうして、お昼が来るのを待つ。
 待望の午後1時。遊び場を与えられた子供のようにどこかへと向かう友人たちに倣って自分たちも学校を後にする。
 普段とは違う道を歩いて、他愛もない冗談話をしながら少し遠くの所まで行く。自分が左手を出して、それを秀介が右手で包んでくれながら。ぎゅっとしながら。
 歩くスピードは一人で歩くより0.8倍くらいにして。まだ慣れないその温もりにちょっとドキドキしながら。
 そして少し遅い昼食を摂る。
 久美のメモ帳を覗けばショッピングモールの中にある店の名前が書いてあった。恐らくはそこで昼食の予定なのだろう。
 その後は適当な買い物と、おしゃべりの予定。

 ぱたりと久美はペンを置いた。ページの3行目。その後の予定が中途半端に書かれて終わっていた。帰り際のことだろうか。
 顔を見れば彼女のそれは真っ赤だった。瞳は閉じられていて、まるで何かを考えているようである。
 
 
 『…………久美。目、閉じて』


 頬に触れられている大きな手が温かい。
 自分の名前を乗せた声が耳に優しく響いて体が震える。
 完全に瞼を閉じる瞬間、穏やかな笑顔をした彼の顔が見えた。
 バクバクと鳴り続ける心臓がやけにうるさくて。
 目を瞑っても目当ての感触がやってこないことにじれったさを感じて―――


 「―――有坂! 有坂 久美!」

 「は、はいっ」


 ―――急に現実に引き戻された。

 びくりと身体を震わせ、ガタンッと大きな声を上げて久美は立ち上がった。
 どっとクラス中が笑い声に包まれる。目の前を見れば何やらご立腹な顔をした物理教師、斉藤が。


 「……え? あれ?」


 妄想の最中から帰ってきた久美は何が起きたか分かっていないようである。
 怒り顔だった教師は呆れたようにため息を吐き、チョークで黒板をカツカツとわざとらしく叩いた。
 そこには小奇麗な文字の羅列が。

 『物体が等速で円周に沿って円周の2/3回転するのに0.4かかった。円の中心と物体に及ぶ動径は―――』

 なんだか、分からない問題が書いてあった。
 え? 日本語?


 「有坂、何を考えていたか知らないが、それはこの問題の答えだと俺は思ってもいいんだよな?」

 
 …あー、そういうことか。
 久美の頭の処理装置はようやっと重い腰をあげ、行動を開始した。一般の人よりは低速とはいえ、機能は普通だ。
 レジスタとメモリがリアルタイム処理を終え、結果を出力する。

 …あぁ、問題を解けってことですね……。

 嘘でしょ?と信じられないわといった表情をする久美をよそに、彼女の妄想の主役だった秀介は爆笑していた。
 先程まで睡眠学習中だったのに、私は関係ないですよといった表情がやけに憎い。
 ふんっと秀介に向けていた顔を逸らし、黒板の前へと歩いていく。ずんずんといった効果音が似合うその後姿を見ながら、秀介は再度笑った。
 しかしそれは苦笑で。その苦い笑い声は、慈悲を含んだ小声は、久美だけに届いた。

 怒り心頭かと思われた久美だったが、心は穏やかだった。
 秀介の顔を見た瞬間、それまでの感情がどこかに吹き飛んでしまったかのように。
 なんとも現金な自分だろう。顔を見た瞬間に、全てがどうでもよくなってしまうなんて。
 なんて縛られている自分だろう。あんなに大きな声に気付かなかったなんて。


 黒板の前に立ち、白いチョークを持ちながら、彼女は少し笑い、考えた。


 ―――さて、この問題はどうやって解けばいいんだろう?


Fin

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