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April Fool
四月バカ。エイプリルフール。
嘘で思い出した、そんな穏やかな春の日。










April Fool
Presented by 三式









 追試中である。


 麗らかな春の陽気が射し込んでいる教室内。生徒の姿はおおよそ10人といったところ。
 時刻は午後の3時。ぽかぽかお日様が暖かい。
 カリカリと鉛筆が走る音だけが妙に耳につく。話し声は、ない。

 「……あ」

 解答用紙に名前を書いてないことに青年は気付いた。
 問題用紙のことを一旦頭から外し、解答用紙の名前欄に眼を向ける。そして手を走らせる。
 流れるような文字体は一般男子生徒にしては綺麗なほうだろう。
 名前を書き終えてから再度問題用紙へと向かう彼の名前は榊 秀介といった。
 特に問題を起こす生徒ではなく、学校の中でも彼は健全な男子として認識されている。
 身体的な特徴を挙げるとするならば、前髪は眉より少し下まであって、少し長め。その瞳は一重で黒目が少し大きい。髭は、生えていない。性格はわりと明るめ。クラスの中心とまではいかないが、空気の読める奴として慕われている。
 法律も守って、飲酒も喫煙もしていない、どこにでもいそうな男子生徒であった。
 ただし、学力は低い。
 それに、彼女といわれるものもいない。
 ―――現在は、だが。
 考える限り、日本全国を探せば同じ境遇の人などどこにでもいる彼であるが、多少異なった点もある。
 
 秀介はちらりと横目で隣を見た。

 「……何?」

 小声で、透き通った綺麗なそれが秀介を刺した。

 「いや、なんでもない」

 追試中である。
 監視官にばれないように秀介も小声で返した。
 その答えに多少の疑問を持ちながらも問題へと取り掛かる彼女の名前は有坂 久美。
 秀介の幼なじみ、である。

 特徴は柔らかいショートの黒髪と、薄い胸―――と秀介は思っている。
 学力はこの場にいることが証明している通りに、低め。だが、彼女の運動能力は高い。
 彼女の部活は水泳部である。2年の現在で既に水泳部のエースで、3年生が引退したら主将は確定していると言われている。
 伝統ある水泳部で、である。
 
 秀介たちが通う学校は水泳で有名な私立の高校である。
 私立の利点を生かした設備に有能なコーチ。
 中学時代に実力者としてならした生徒たちがその環境に惹かれ、遠くからやってくる。
 結果、団体では毎年といっていいほど全国大会に出場、入賞している。
 そんな中で久美はエースとして活動していた。

 秀介と久美の関係は一言でいえば腐れ縁と称するのが最も適切ではないだろうか。
 幼稚園で同じクラスになり知り合って、それから小学校、中学校、そして高校と同じ学校同じクラスで過ごしてきた。
 更には家も意外に近い。互いの家から歩いて5分。自転車で2分である。
 もうお互いに知らないところはないのではないか、というほど彼らは一緒にすごしてきた。
 両方とも相談もしたこともあるし、好きなもの、嫌いなものも知っている。
 今では久美の部活が忙しくてそうも行かなくなったが、昔は一緒に遊びに行ったりもしていた。風呂だって、何回か入ったこともある。

 が、二人は恋人同士ではなかった。

 確かに、一緒にいると楽しい。よく話だってするし遊びにだって行く。
 秀介はよく友人たちに付き合ってるだろ、とか言われる。
 しかし、彼女にするだとかは余り考えたことはない。

 本音を言えば、一度や二度はそういった関係になりたいと考えたことも秀介はあった。
 胸は小さいが、顔は可愛い。肩にかかるくらいの黒髪が揺れ、明るく笑うところなんかはかなりいい感じだ。胸は小さいが。
 だがしかし、秀介はどこか諦めている節があった。
 釣り合わない、と言った感情が秀介の中で蠢いているからである。
 胸は小さいが、明るく、笑顔の可愛い女子。加え、水泳界では超有名人。この前なんて他県からラブレターが届いたという噂を聞いた。
 そんな女子高生と、なんの取り柄もない男子高生。
 どこからどう見ても、絵にならない。

 最終問題を解き終えた―――全ては解いていないが―――秀介は顔を上げ時計を見る。

 「……は」

 残り25分もありやがる。
 テスト中において25分というのは致命的な長さである。答案用紙を見直すしか行動ができない。そんな中においてこの時間はあまりにも酷だ。酷すぎて同じ歌詞が何度も頭の中をループすることもある。非常に由々しき事態である。
 全て解き終えてないのだから秀介には再度考えるという方向もあった。しかし彼はそれをしない。やれることは全てやったつもりなのである。もう一度やるなんてありえない。
 そうして彼は、はたと辿り着いた。
 本日、4月1日。エイプリルフールである。
 直訳すると4月馬鹿だ。そんなことはどうでもいい。
 一年に一度、うそを言っても大抵は許される日である。あくまでも大抵は、だが。
 そして秀介はこの日が大好きだった。日頃、嘘をつくのを嫌としているため―――もちろんこれは嘘であるが。
 なんにしても秀介はこの日、休みの日であるこの日に久美と同じ場にいることを神に感謝した。
 
 ―――っふ。今日くらいは俺が優位に立たせてもらう。慌てふためく顔を見せてくれ、な。

 時間はある。と時計を再確認して秀介は思考の海へ飛び立っていく。左肘を机に立て、顔を凭れさせながら。考え事をするいつもの癖だ。
 どんな冗談をかましてあげようか。
 窓の外を眺めながら、そんなことを考え始めた。

 ちなみに秀介は無神論者である。







 * * *







 そうして隣の席でかたりとペンが置かれる音がした。
 本日の追試は席順は自由となっていて、久美の隣の席は幼なじみである秀介であった。
 恐らくテストが終了したのであろう。ふぅとやり終えたといったニュアンスのため息が聞こえた。久美はまだ問題を解き終えてはいなかった。
 何かに集中していれば些細な物音など気にしないものである。聴覚に信号は伝達されるが、脳が注意を払うでもないと認識するからである。
 だが久美はそれに機敏に反応した。
 青いシャープペンシルの先の数式から目を思わず離す。視線は左隣の彼へと注がれた。
 視線の先の主はなぜだか楽しそうに窓の外を眺めていた。つられて自分も覗いてみる。
 天候は晴れ。風は穏やか。そこかしこに白いカーテンが蒼天の空にかかる。
 その主と、こんな日に遊びに行ったら楽しいんだろうなぁと妄想する。心臓が高鳴って、はぁと熱っぽい吐息が漏れたことに自分でも驚いた。

 「(……らしくない)」

 本当に、らしくない。
 自分が自分じゃないように思えて仕方がない。彼の顔を見るだけでこんなに昂ってしまうなんて。少女漫画の乙女キャラじゃあるまいし。それに、ほら。あたしの目指すところはクール&ビューティー。凛々しいお姉さまだったはずだ。
 なのに、どうして。
 いつからこんな乙女になったんだろう。

 元凶のその男子を観察する。とうにテストへの興味は薄れてしまった。
 解き終えてないといっても解答欄の7割以上は埋めている。どうせ留年になどなるはずないのだから、いいか。そんなことを久美は考えた。私学の特権である。
 
 秀介自身気づいてはいないが彼のレベルは高い。
 すらりとする鼻筋に、人懐っこい瞳、髭という存在を忘れたのかのような肌。癖のない髪は清潔感を漂わせ、それに相成って180cmの高い身長が紳士さを演出させる。明るい性格がそれを台無しにはしているが、それもまた一興である。体型は痩せ型を極めている。高校に入り、急激に伸びた身長に筋肉が追いついていないためである。

 「(だからといってボディービルに目覚めたりされたら嫌だけど)」

 久美の身長は極めて普通な160cmである。いや、少し高めだろうか。それでも彼女はできることなら後5cmほど高くなりたいと常々思っている。
 中学生のときに読んだ雑誌の影響である。
 
 『キスのための理想身長差は15cm。少し爪先立ちになるくらいがちょうどいいでしょう』
  ―――恋する君への恋のマニュアル vol.1 〜予備知識編〜(税抜き750円) 41P 2行目より抜粋

 最近は牛乳を飲むのを欠かさない毎日の久美である。

 「……?」

 向けられる視線に気づいたのか、秀介は久美を見た。

 「どうした?」

 教師に気づかれないようにあくまで小声で。だがしっかりとその声は久美へと届いた。
 秀介の目が細くなる。まるでにらみつけるかの印象を持たせるその行為は秀介の癖だった。何かを探るような、その仕草。
 あぁ、何か答えないと―――久美の遅い思考回路が組み立てる。
 跳ねる心臓を押さえつけて―――

 「だ、誰もあんたなんか見てないわよ」
 「……そう」

 やけににんまりとした表情でそう言う秀介。
 …失敗した。秀介は一言も「俺を見てるのか?」とは言っていない。
 そうして彼は何事も無かったかのように戻る。緩んだ口元から覗かれた白い歯がまた自分の胸を締め付けさせて―――どうしてこの人を好きになったのかを思い出し始めた。







 そう、あれは小学3年生のときだったはず。
 いつも通りに学校へと向かい、授業を受けて、帰ろうとしてるときだった。
 それまでは特に普通に暮らしていたのでそんなことをされるわけ無いだろうと思っていた。だから、理由なんてわかるはずないのだった。
 哀しいとか怒りといった感情は生まれてくるはずも無く、ただ久美の感情は『何故?』というものだけが占めていた。


 秀介と一緒に帰ろうとしたら、下駄箱の中に久美の靴がなかったのだ。


 どこかに置き忘れてしまったのかという考えがまず先に浮かんだ。が、しかしそれは普通はありえない。
 今思えば単純に隠されただけで、そこまで気にするものではないが。気にする人もいるが。小学生の彼女にとっては相当ショックな出来事であった。
 何が原因か。それも今となっては説明がつく。それは、久美を嫉む女子からの報復だったのである。
 秀介は自分をそうは思っていないが、カッコいいかと聞かれれば殆どの人がカッコいいと答える容姿を持っている。いつも一緒にいる久美への嫉妬心からのものであった。

 「……どうした? 遅いぞ?」

 痺れを切らした秀介が外から彼女の元へと歩いてくる。
 訝しげに目を細め、いつまでも変わらないその癖で。その姿に安堵感を覚え―――決壊した。

 「くつ、なくなっちゃった……」

 言って、ダメだと思った時には遅く、瞳はいつの間にか涙を流していた。
 急に泣き出した久美を見た秀介はどうしようもない何かを感じ―――後でいう恋心である―――やけに落ち着いていた。
 泣いている目の前の少女がやるせないほど可愛いと思えてしまい、冷めたやつだと自分を蔑んだ。

 「どうしてっ、どうしてなくなるのかなぁっ……あたっ、あたし、何もしてないのにっ」
 「……大丈夫だって。泣くことなんてぜんぜんない」
 「でもっ、でもぉっ」

 みっともない。
 男友達に、しかも幼なじみに、一番の親友にこんな姿を見せるなんて。
 今考えるからこそそう思えるが、当時はそんな余裕なんて欠片すらなかった。

 秀介は何かを思い出したように目を開く。そしてポケットから何かを取り出した。オレンジの包装がされているそれはキャンディーだった。
 包装を取り、中身を取り出す。

 「ほら、泣くなって。これ、口に入れるといいぞ」

 泣きじゃくる久美は秀介の言葉に上手く反応できない。仕方ないな、と秀介はつぶやいて久美の口にそれを入れてやった。して5秒ほどすると、不思議なくらいに久美の嗚咽は止まっていた。

 「母さんが言ってたんだ。悲しいことがあったら飴を舐めるといいって」
 「……ん……」

 飴を口に入れているし、さっきまでの嗚咽のせいで久美は声を出すことができない。ただ、頷いた。
 キャンディーの甘さが久美の心の波を穏やかにさせていく。コロコロと口の中で転がすと、目の前の男の子の味がしたような気がした。
 うんうんと満足そうに秀介は首を動かす。そうしてさてどうするか、と自分に言い聞かせるようにして呟いた。
 夕日が最大に燃え盛る時間帯は過ぎようとしている。後は暗くなっていく一方だ。

 「今から探したんじゃ暗くなるからな……うん」
 「……?」

 秀介が久美の前でしゃがみ込む。

 「ほら、乗って。早くしないと置いていくよ?」
 「……ぇ」

 何をするべきなのか一瞬では理解することが出来なかった。あぁ、おんぶしてくれるんだと理解したときには2分が過ぎていた。
 置いていくと言った割には律儀にその場に屈んでいる秀介が頼もしいナイトに見えた。

 乗った瞬間、その身体が温かくて。包み込まれるような体温が心地よくて。なんだか眠ってしまいそうだと思った。
 んっ、と一声出して、その後は何も言わずに秀介は歩き出す。重くないのかな、疲れないのかな。そんな言葉たちが身体を駆け巡るが、声には出ない。
 代わりに出たのは自分でも予想外の言霊たちで。

 「秀介は、優しい……」
 「ん?」
 「こんな疲れることしなくてもよかったのに。置いていけばよかったんだよ?」
 「ばっか。んなことできるかって」

 そっけなく答える割に耳は真っ赤に染まっている。夕日のものじゃないことは明らかだった。
 ―――照れてるんだ。
 そう思った瞬間、言いようのない締め付けが久美の胸の奥を襲った。
 鼓動を聞かれるのがいやで身体を離そうとしたけど、できなかった。せめて秀介に聞かれないようにと祈る。

 「しゅ、すけと結婚する人は幸せだ、ね……」
 「は?」

 だんだんと眠気が襲ってきてその先は何を言ったのか、何を聞いたのかわからない。
 ただ物凄く恥ずかしいのは覚えている。
 どうしてそんなこと言ったんだろう。普段の自分ならそんなことあるわけないんだ。
 そう、だからそれは秀介のせいなんだ。
 秀介が暖かかったから悪いんだ。
 そうだ。そういうことにしておこう。

 「カッコよくて、やさしくて……どんな人が似合うのかな……ぁ」
 「…………」

 そうしてそこで意識は途切れた。
 ただ残っていたのは、夕焼けに染まったあの人の顔だけ、で―――







 「おい、久美? おいっ」

 滞りなく追試は終了する。それに伴い必然的に答案用紙を回収するのは当然なのだが……。
 
 「久美さん? 起きてますかー?」

 ペンを握ったままぽけーっとしている有坂家の久美さん16歳。
 まさか眠ってるんじゃないのかと秀介は辿り着き、馬鹿か俺は、と恥じた。仮に目を開けたまま眠れるとしたら世界の珍行動集に応募してもいい。
 仕方なく身体を揺する。秀介が久美の身体に触れるのは初めてではないが、久しぶりだった。
 軽い―――と思った。
 思春期になってからは言葉だけの付き合いだったので気づかなかったのだ。
 そう、こんなに細いなんて。

 「……ぁ?」
 「ほれ、気づいたならさっさと後ろを向く。ほら」

 言われるがままに久美は後ろを向く。ようやく思い至ったようだ。多少顔を赤らめて答案用紙を倣って前に回す。
 担当教師が声をかける。

 「よし、採点は30分くらいで終わるからな。そしたら黒板に貼り付けておくから、それまで待機しておくように。それじゃあ芦原、号令を」
 
 芦原と呼ばれた生徒が代表で起立をさせる。
 立ち上がって、礼の号令をかける瞬間、秀介は久美に話しかけた。

 「4時に、屋上で待ってる」
 「え?」
 「礼」

 従って秀介も久美も一礼をする。
 終わった瞬間秀介はカバンも持たずに教室を出て行った。
 何か久美に話しかけられたような気もしたが、気にしないで歩いていった。










 夕刻に差し掛かる16時の5分前。フェンスへと背を凭れかけさせている秀介は一度ぐっと右手を握り締めた。
 この学園の屋上は解放されている。公立校ならば普段は閉鎖されるべき場所であるが、私学であるのが理由だろうかこの場所は出入り自由だった。
 生徒の自治性を重んじる校風である学園ゆえにでもある。良い傾向として今までこの場所でタバコを吸ったりするものはいなかった。
 暖かい日は外を好む生徒が昼食を摂る場所でもある。
 秀介は学食派であるため昼時にはここへはこないが、放課後などはよく顔を出していた。
 煙と何とかは高いところを好むとはよく言ったものである。

 「そろそろ来るかな」

 誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。久美は時間に細かいタイプであるためである。
 今までの経験どおりならば集合の5分前きっちりに来るはずだからだ。
 そうして秀介は計画の再確認を脳内でする。

 告白(ウソ)をして、久美をあたふたさせる!

 潔いものである。

 よりにもよってそれかよ、と自分へと突っ込む秀介である。
 しかし単純で効果てきめんで確実的なのはそれしか思いつかなかったのも事実。
 どこかで鈍い痛みがするような気がしたが、秀介は気に留めなかった。それは紛れもなく自分の恋心からの警告だということに秀介は気づかない。
 今までの居心地が心地よすぎて身を潜めていたそれを押し込めてしまっていたかのように。

 図っていたかのように屋上のドアが重く開く。決して重量的には大きくないそのドアは鈍い音を響かせてゆっくりと動いていった。
 出てきた人物は急な夕日の日差しによって一瞬眼を眩ませた。
 人間の感覚器官において最も始めにそれを知覚できるのは視覚と嗅覚である。次いで触覚。
 ドアの向こう側から現れた人物は秀介を見、歩き、そして話しかけた。

 「用事って、なに。秀介」
 
 澄んだ響きで紡がれるその声には、抑えきれない高揚が滲んでいた。

 「いや、まぁちょっとな…」

 内心で秀介は高ぶるのを感じた。
 黄昏に染まる目の前の女性が一瞬見たこともない人に見えたからだ。眼を瞑って再度開くと紛れもなくそれは久美だった。
 ―――何だ。こんなに可愛かったか。
 頭に雑念が入る。
 くそ、邪魔だ。こっちに来るな。考えるな。
 嘘をつくことにこんなに罪悪感を感じたことはなかった。しかし、行動したものはとめられない。
 言葉は銃弾に似ているとは、よく言ったものだ。とどこかで分析していた。

 「こんなところに呼び出して。まさか、あたしのこと……とかないよね」
 「ある」
 「………え」

 多少先手を取られたが、間髪いれずに返した。それも、超真顔で。
 それは久美を動揺させるには十分すぎる。いつ一線を踏み越えるのか、いつ越えるべきなのかを妄想していた久美にとってそれは衝撃の以外の何物でもなかった。
 瞬間的に久美の心臓が沸騰する。
 そしてそれは一瞬で冷却された。

 「…っていうのは、冗談で」
 「……は?」

 点になる。

 「いやー、ほら今日エイプリルフールだろ? だから何かないかなーって考えたらさ」
 「……う、そ?」
 
 冷える。沸く。流れる。
 嬉し泣きの涙は一瞬で悲しみの涙へと変貌する。

 騙したって……そんな。そんなことって……

 「あ……うん」
 「ぅ…」

 空気が冷える。
 さすがに不味いことをしてしまったか、空気が悪い。胸が痛い。久美を呼び出してから胸を痛めるこれは、いったい何なんだろう―――。
 居た堪れなくなり、秀介のトーンが下がる。正面を見ていることができなくなり秀介はうつむき加減になる。

 「そんな……あたしだって……ひどいよ」
 
 久美の頬に伝っていた涙が地面へと降っていく。たった一筋の大きな粒が、屋上へと辿り着くと同時に久美は逃げ出した。
 ひどい、と秀介の心に鋭いナイフを刺しつけて。

 泣かせ、た? 俺が―――久美を?

 震える。身体が、心が。
 泣かせてしまった。他の誰でもない、この俺が。
 
 秀介が自覚した瞬間、身体は自然と走り出していた。階段を降り、誰もいない廊下へと耳を傾ける。自分以外の誰かの走る音がした。それは久美のものだ。
 走る。

 泣いた顔なんて見たくなかった。泣かせてしまうなんて、どんなに俺は馬鹿なんだろう。
 どうしてこんなに胸が痛いんだろう。心が―――あぁ、あいつのこと、好きだな。

 走って、追いかけて。首元を締め付けるネクタイが熱い。帰宅部と運動部。体力の差は明らかだが、それでも追いかけた。
 髪が乱れる。汗が出る。だけども、構わない。全力で追いかけた。


 「……追いついた」
 「は、はなして」
 「いやだ」
 「放して」
 「断る」

 秀介は久美の右腕を掴む。その手首は折れそうなほどしなやかで、すっぽりと秀介の掌の中に収まった。
 ぐいっと引っ張る。暴れる久美を秀介は胸の中で無理やりに押さえつけた。

 「放して!」
 「嫌だ」
 「放してって言ってるでしょ!」

 背中に回された腕で久美は身動きが出来ない。ただ声を荒げるばかりだ。
 秀介が抱きしめたまま5分が過ぎるころ。久美は観念したのか、諦めたのか黙りこくってしまった。
 見計らって秀介が話を始める。

 「さっきは、ごめん」
 「…………」
 「あんなこと、冗談でも言うべきじゃないよな。本当に悪い」
 「…………」
 「だけど、気付いたんだ。あれは冗談だけど、嘘じゃなかったって」

 無言を貫いていた久美が少しだけ反応を示す。

 「ずっと昔から……俺は、久美が好きだったんだって」
 「……え」
 
 ―――あぁ、言っちゃったよ。恥ずかしいことは嫌なのに。

 「だってほら、ずっと一緒にいたし。昔から可愛かったし」
 「…………」

 顔が熱い。耳も熱い。

 「運動も出来て、頭は悪いけど元気で可愛いし。細いけどしなやかだし」

 あぁ、もう止まらない。

 「……他の男から告られたって聞いたとき嫌な気持ちになったことだってあったし……昔はお前で……」

 したこともあるし、とはさすがに声に出せない。

 「―――ごめん、やっぱりお前のこと好きだわ」

 改めて言ってしまうとなんだか振り切れた感じがする。相変わらず心臓は破裂しそうなくらい跳ねてるけど。
 
 「……それもウソ?」
 
 心配顔を浮かべて久美が言う。
 嘘じゃないって、さっき言ったはずなのに。

 「う、嘘じゃないっ。さっきのは、そう! 今日があの日でだからで!」

 秀介が叫ぶと、久美は顔を赤らめながら笑う。

 「……じゃあ、証明してよ」
 「し、証明って」
 「騙されたから、抱きしめてくれるだけじゃ足りないの」

 期待するように下から見上げてくる久美。
 少しだけ開かれた唇が秀介を誘う。
 自分のそれをその場所に持っていこうと、抱きしめた腕を弛めようとして―――

 
 「失礼だが、校内でそういった行為をするのはやめてもらえるかな」


 ―――突き飛ばして離れた。

 「せ、先生!?」
 「……いったぁ……」
 「あ、ご、ごめん。それより! 何故先生がここに!」
 「何故と言われてもな。私は教師だからここにいても不自然ではないだろう。しかし、まぁ……」

 渡辺教師は立ち上がった久美を見る。

 「水泳界の高嶺の花ともあろう有坂が、ねぇ……。まぁ、いいことじゃないか」
 「……どうも」
 「はっはっは、そう硬くなるな。恋はいいものだよ。私だって昔は……おっと、これは関係ない話か」

 なんだかやけに親しいなと秀介は邪推して、思い至る。
 渡辺は水泳部顧問だった。

 「羽目を外しすぎなければいいさ。さて、私はこれを張りに行かなくてはならないのでな」

 ひらひらと持っていた書類らしき紙をなびかせる。なんだろうと思いながらも秀介と久美はため息をついた。
 帰ろうか、とアイコンタクトで意思疎通。

 「あぁ、そういえば」

 何かを思い出したかのように声をかける渡辺。
 …何か、嫌な予感がした。

 「秀介、お前は明日再追試だからな」

 的中。

 「は!?」
 「見事39点。よくこんな神業できるなぁ追試で」
 「い、1点くらいいいじゃないですか! ほら、久美も何か言ってくれよ!」
 
 「えっと、がんばってね?」

 「そ、そんなん嫌やーっ」

 
 天使のような悪魔の笑顔が、この日までで一番残っている顔だったという。
 
 Fin
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