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 それは、ある寒い冬の夜のこと。
 

 『お母さん、太一と一緒だとよく笑うね』
 その言葉を聞いたとき、ピシンとどこかに亀裂が走った音を涼子は確かに聴いた。
 まるで、そこには自分以外誰もいないかのような心境に陥る。だがそれは涼子の心の中だけであった。目の前には確かに愛する娘が存在しているし、2階の部屋には居候の甥がいる。
 それは確かなことであり、疑う余地もないことだった。


 「わら、う?」
 「うん。なんだか、普段より楽しそうな顔してるよ」


 おぼつかない口ぶりで涼子は愛娘に尋ねた。笑う、という仕草をまるで忘れ去っているかのように。
 笑う。ということは嬉しいこと、楽しいこと、おかしいこと。そんな悲観的ではない感情が生まれたときに出るものである。
 確かに、表面上はいつも涼子は笑っていた。にこにこと愛想を振りまき、周囲を和ませようと。しかし騙せているのは自分以外。自分は感情を捨てていたから。
 そんな自分に千秋は笑っているという。彼といるときは本当に笑っているようだと。


 「そうかしら…?」


 口では疑問形で言ったものの、涼子は内心では違うことを考えていた。にまーっと嬉しそうに娘が笑う。
 そして二の句に、そんなことないわ、と付け加えようとして、失敗した。否定しようとしても口は動いてはくれなかった。
 頭と心が反発しあっているようだ。ぐるぐると、頭の中を、いや身体全身を色々なことが駆け巡る。
 
 それは一緒に買い物に行ったときのこと。お米を買うときのみの稀な出来事だったが、重い荷物を運ぶ彼の優しさが嬉しかった。
 それは家族で遊びに行ったときのこと。春先の温かい午後の日差しを浴びながら、美味しいと自分の料理を食べる彼の顔が眩しかった。
 それは亡き夫を偲んで悲しんだときのこと。涙を堪えていた命日の夜。泣いたらどうですか?と静かに囁く彼が大きく見えた。

 たくさんのことが、たくさんの彼が浮かんでくる。
 頭が熱くなってきて、胸はくーっと締め付けられるような切ない感覚。
 そうして気付く。否定なんか、したくなかった。もっともっと、一緒にいたい。自分が失くしかけていたもの、凍らせていたものを取り戻させた彼と、一緒に、と。
 
 しかし。涼子は、そこでなりふりかまわず行動できるほど子供ではなかった。
 自分は彼の、叔母。彼は、私の甥。三親等以内の恋愛は禁忌とされていることを重々承知している。
 そして、彼は、娘が想いを寄せている男。
 親戚というだけならばまだよかった。禁忌であるということをしっていても隠しながら生活はできる。それに、彼がいてくれるのならば、世間に後ろ指刺されても自分は気にしない。
 だがしかし、娘の恋敵になることだけはできなかった。
 太一のものになり、太一を自分のものにしたいという激情には気付いた。気付いてからほぼ間もないが既にそれは消せないほどに燃え盛っていた。
 しかし、10何年もしてきて身についた習慣が、娘を大事にする思いがそれを押しとどめる。
 長い間自分は千秋のために生きてきた。そりゃ世間一般が言う豪華な食事や広い家は用意できなかったが、苦労しないほどには生活してきた。
 娘が喜ぶことを考え、行動してきた。そんな癖が自分を殺す。


 「…千秋は、太一さんのことが好きなのよね…?」
 「えっ…………う、うん」


 突然の質問に千秋は顔を赤くして答えた。ズキンと胸が痛むが、気にしない。
 やはり、私は前に出るべきではなかった。間違ってはいない。
 娘が幸せに、なることが、私にとっての……しあ、わ……せ……。
 目頭が熱くなる。喉が引きつりそうになる。それを無理に押さえつけて、平静を装うと努力した。
 
 
 「…なら、私がいうことは何もないわ。ほら、もうそろそろ寝たら?」
 

 うまく言えたかしら…懸念に思いながら促す。涼子に従い、赤い顔をしたままの千秋はうんと呟いて部屋を出ようとする。そして、ドアノブに手をかけたところで静止した。 
 忘れ物?と言おうとして口ごもる。
 何故だか、とても真剣な顔をした娘が其処に立っていた。


 「お母さんは……」


 ドクンと心臓が跳ね上がる。なんとなく次の言葉は予想できた。


 「お母さんは、太一のこと……ううんっ、やっぱりなんでもないっ。おやすみなさいっ」


 人が変わったのかのように千秋は明るく振る舞い小走りで駆けていった。涼子はそれを神妙な顔つきで見送ってから、俯き、ため息を吐いた。
 
 ―――俯いたから気付かなかった。入れ替わりに、誰かがリビングに入ってくることを。

 千秋が言おうとしていたのは実際に言わなくても確信していた。親子なのだ。それも同姓の。子は親に似るという。だから、分かってしまう。
 

 「太一さん……か……」


 改めて思い返す。
 素直ないい青年だ。昔のように甘える男の子ではなく、成長した好青年である。自分にはもったいないくらいの。
 TVに出るほどではないが、整った顔立ちをしていて、明るい。娘の好意に気付かないほど疎いけれども、他人を思いやることの出来る人。
 年甲斐もなく、胸が昂ぶる。
 だからかもしれない。決して言うまいと思っていた言葉が出てしまったのは。


 「好きに決まってるじゃない……愛してるわ……たとえ、甥でも」









 * * *











 外は雪が降り積もり、三日月が足跡すらついていない雪の道を照らしているのをぼーっと太一は見ていた。上空を見ると雲は出ているが、月には架かっていなかった。雲は一直線に並び、月の横を伸びている。まるで、花嫁がヴァージンロードを歩いているようだな、と太一は柄にもなくそう思った。
 部屋に電気はついていない。田舎故なのかそれともこの家だけが単純に広いだけなのか、太一の部屋は広々としていた。月明かりだけが刺し込み、何もない部屋が幻想的にイルミネーションされる。なんとなく、エアコンも消した。美的価値観は皆無といっていいほど装飾に興味がない太一だが、なんとなくそんなことをしてみた。雰囲気がそうさせたのかもしれない。


 「……涼子さん」


 無意識のうちにその名前が口から出る。
 綺麗な人だと、純粋に太一は思う。とても高校生の娘を持った母親には見えない。長い髪に、穏和な性格を思わせる整った顔立ち。どこからどうみても、誰もが口を揃える美人だ。
 確かに、と太一は納得する。確かに最初はその容姿に目を奪われていたときもある。しかし太一が惚れこんだのはそこではなかった。
 綺麗な人だと思ってはいたが、それ以上に強い女性だと最初は感じた。
 一人娘を身一つで育て上げている中、辛い、疲れたなどという弱音は一切吐いたことを太一は記憶していない。どんなときでも微笑を絶やさず、自分や娘のことを見守っていた。
 それが間違っているとは、思いもしなかった。
 

 「…あの時からか。あの人を想うようになったのは」


 6月の上旬だった。雨の降る休日の夜。今から5ヶ月ほど前の出来事だった。太一が3年に進級して、クラスにも十分なれきったころのことである。
 一日の用事を全て済ませ、リビングのソファに身を沈ませる。ふぅ、と一日を振り返るようにため息を吐いてコーヒーを飲み、彼は違和感に気付いた。
 日曜の夜である。千秋はいつもどおりに早くに寝ていた。そういえば―――涼子さんは?
 既に22時を回っているが、彼女はいつもはこんな時間には眠らない。じゃあ何をしているんだろう?
 何かに突き動かされるように彼は家の散策をはじめた。
 ふと、とある部屋の前で足を止めた。

 ―――すすり泣きが聴こえる。

 そこは今は誰も使っていない部屋だった。―――亡き夫の部屋である。
 実を言うと今日は彼の命日だった。それは今日全員で墓参りに行ったから太一は知っていた。そのとき涼子が泣かなかったことも。
 じゃあ何故今―――こんな声が聴こえる?
 確信にも似た予測が太一の頭の中で浮かんだ。
 静かに、しかし躊躇いなくそのドアを開ける。中にいたのは、目尻に大粒の涙を溜めた少女―――のように太一には見えた―――だった。


 「……涼子さん」 

 
 仏壇の前にしゃがみこみ、肩を震わせている彼女が見えた。電気は点いていなかったが、外から差し込む光でそれが分かる。
 どうして泣いているのですか?とは訊かなかった。いや、訊かなかったのではない。訊くな、と心が叫んだのだ。
 俯いて塩辛い水をその眼から流す彼女を、不謹慎だと思いながらも美しいと感じた。抱きしめたいと、身の程をわきまえない感情を抱いた。
 その黒い蛇を押さえつけ、殺す。
 そっと近づくと、彼女は顔を上げた。


 「たいち、さん。わたし―――」
 「……えぇ、分かっています」


 それだけ言って太一は涼子の顔をそっと胸に押し当ててやった。ぽんぽんと背中を優しく叩いてやる。
 下の方から、嗚咽が聞こえた。泣き声を押さえ込んでいるのが一瞬で分かる、苦しそうな声が。

 ―――あぁ、なんてか細い。

 今までの認識が間違っていたと太一は解釈した。どうして強いなんて思っていたんだろう。こんなに細い女性が強いわけがないじゃないか。
 声を押さえながら、一生懸命に涙を堪えようとしている姿が、すごく痛い。
 こんなときくらい、頼ってくれないのかな。という思いを込めて太一は口を開いた。


 「…もっと、泣いたらどうですか?」
 「っ……」


 その言葉が涼子に届いた瞬間、彼女は一言、『すいません』と掠れた声で言って大声で泣き出した。
 振り切るように。縋るように。
 
 ―――今思えば。
 この時に泣いた彼女を見なければ、俺は涼子さんを強い女性だと勘違いしたまま、暮らしていたのだろう。
 どちらの方がよかったのだろうか。
 気付かなければ、離れ離れになることもなかった。だけど、気付いたから俺たちは結ばれた。―――瞬くような時間だったけれども。
 あぁ―――本当に、分からない。


 「…………」


 少し寒くなってきた。タオルケットを身体にかけて、そばにあったコーヒーカップを手に取る。口をつけ、カップを傾けようとしたところで気がついた。
 ―――あ、さっき全部飲んだんだっけ。
 ふむ、と呟いて太一は立ち上がった。このまま景色を眺めているのも悪くはなかったが、汚れたカップをそのままにしておくのも悪いと考えた。タオルケットをベッドに置き、部屋を出て行った。


 太一はドアを開け、階段へと続く道を歩き、一階へと降りる。すると何やら顔を赤く染めた千秋が見えた。
 よぉ、と声を掛ける。


 「もう寝るのか?」
 「あ、太一……うん、明日も部活あるから。おやすみなさい」


 そう言うと千秋は太一の横を急ぐように通り過ぎていった。おやすみ、と答えて閉まってないドアを潜り抜ける。
 
 心臓が、飛び出るような台詞が聴こえた。




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