TOP - NOVEL
いつか咲く花のために
朱美は僕のことを兄さんと呼ぶ。
僕は彼女のことは名前で呼ぶ。
「朱美」
いつまでも名前で呼ばれることに慣れない彼女―――友人からは名字で呼ばれているから―――は、くすぐったそうに薄く顔に紅葉を散らす。
僕はその仕草が好きだ。
―――名前と一緒になるんだね。
そう言ったときは耳まで真っ赤にしてた。
朱色に染まって美しい―――。僕が彼女に惹かれるのは当然だと思った。
だけど、僕はそれを言葉に乗せるつもりは無い。
だってその方がいいから。
僕たちは兄妹だから。血の繋がった存在だから。
僕はこの気持ちを抱いて、ヒトリでひっそりと生きていく。
いつ爆発するか分からない激情を、一生懸命になだめながら。
いつか咲く花のために
Presented by 三式
「なんだっていうんだよ……」
深夜1時過ぎ。僕はため息とともに毒吐いた。ぐしゃりとうざったい前髪をかき上げ、ベッドへとダイブする。ばふっとマットが音を立て、スプリングが反動する。僕はその反動を利用して一瞬のうちに身体を半回転させた。仰向けになる。銀縁のメガネを無造作に投げ捨てる。急に視界がぐらつき、ぼやける。極度の乱視なのだ。すでにもう何も見えない。
左手の手首から甲を使って両目を塞ぐ。
―――ひどい、な。
本当に酷い話だ。もしかしたら僕の人生の中で最大級に酷な話だったと思う。
大体どうして僕にあんなことを話すのだろうか。友達もほとんどいない、彼女なんてもってのほか。
……まぁ彼女なんて作る気はさらさらないのだけれど。
さっき。つい先程。あ ふゅー みにっつ あごー。
リビングでコーヒーを飲みながら寛いでいた僕の元に電話が掛かってきた。
一体何時だと思っているんだと文句を言いながら受話器をとった僕を迎えたのは聞き覚えのある声だった。…電子音ではあったが。
ともかく、電子音だと何であろうと僕の耳に入ってきたそれは、僕が聴き親しんだものだった。
電話の主はクラスメイトで10年来の親友である隆彦だった。
「なんなんだよ、こんな時間に」
「…………」
開口一番に文句を聞いた所為か隆彦は少し驚いたようだった。しかし、すぐ気を取り直して僕に話しかけてくる。
「…なぁ、お前さ、もう少し愛想良くとか出来ないのかよ」
「ふん。一体何時だと思っているんだ? 1時だぞ、い・ち・じ。家は年寄りがいるんだ。近所迷惑ってやつを考えろ」
「あぁ、それは悪かったな。しかしなんだ、お前が携帯を持っていれば家の方に電話を掛けるってことはないんだけどな。」
「必要ないからな」
「必要ないって…こうして俺とかが電話掛けたりするんだから、持っていたほうがいいと思うぞ?」
「ふん、僕のところに掛けてくるのは隆彦くらいだからな。必要ないんだ。それより、さっさと用件を言えよ」
「…………」
小さくため息をつく隆彦。
隆彦が別の用件で電話をしてきたのはすぐに分かった。隆彦は用事がなければ電話なんて面倒なことはしないし、第一にこんな世間話をするならば学校でしたほうが効率的だ。加え、こんな深夜にわざわざ電話を掛けてくるなど一般の用事では考えられない。
先程のため息は何だったのか。言うべきことを考える時間か、それとも急かす僕にあきれるものなのか。
別に、どちらでもよかった。
がちゃり
中々喋りださない隆彦の言葉を待っていると、リビングの入り口の扉が開いた。
誰だろうと思って音がしたほうを見てみると、冷蔵庫へと向かう妹、朱美の姿が見えた。喉が渇いたのだろう。ミネラルウォーターを取り出すところだった。コップに注いだ水をくぃっと飲み干し、僕の方を見る。
目が合った。
が、直ぐに視線を僕は外す。目を合わせていられない。こんな二人っきりの状況―――電話越しに隆彦がいるが―――で見詰め合ったらどうなるか分からない。
軽く俯き、僕は視線を感じながら隆彦の言葉を待った。板ばさみの状況にイライラする。二人きりの状況で、電話口の相手は何も言い出さないという始末なのだ。
「…………なぁ」
「なんだ?」
漸く切り込んできた隆彦に若干の非難の感情を乗せた声で反応する。
僕が声を出した瞬間、浴びせられていた視線が、唐突に流れを止めた。部屋に帰ったのか、と推測していると同時にリビングの扉が閉まる音を僕は潮騒のように聴いていた。
「一応確認しておくが、お前って彼女いないよな?」
何を言い出すのかと思えば…。僕は口には出さなかったが、心の中で呆れた声を出した。
愚問中の愚問だ。無愛想で口下手。身体的な特徴を挙げれば眼鏡のみ。小学校、中学校の9年間クールな人No1に選ばれた僕に彼女なんているわけがない。加えて言えば彼女なんて今までの17年間生きてきて、一度もいた記録なんてない。
「当たり前じゃないか。第一、そういうことなら隆彦が一番知っているだろう」
「そっか。そうだよな」
僕の答えに妙に納得する隆彦。一体何の用事なのだろう。
「あーいや、なんでもない。それが聞きたかっただけなんだ」
「……は?」
僕は呆けた。こんな深夜に電話してきて、その用件が彼女がいるかどうかを聞くためだけだったと?
頭の中がからっぽになって口から言葉が出てこない。そんな僕に、隆彦が二の句をつぐ。
「彼女がいないんなら話は進むな。明日の放課後、そうだな……5時くらいになったら俺の教室に来てくれないか?」
「え? 5時? なんだってそんな遅い時間に?」
「それくらいの方がいいの。お前に用があるやつがいるんだ」
「用事?」
考える。用事。放課後。5時。
…さっぱり分からない。その用事の人が女子だっていうのなら告白されるっていう初体験が味わえるが…。
まぁありえない話だ。僕を好いてくれる人なんていないし、仮に好かれても答えは……。
「そう用事。まぁお前の考えてる通りさ。学生の放課後の用事なんてそう多いもんじゃないし。良かったな」
「……全然よくないよ」
小声でそう答えた僕に今度は隆彦がぽかんとする。それもそうだ。好かれていると知ってそれが嬉しくないと思う奴なんて殆どいない。
とりあえず、5時に来てくれよ。と僕に通告し、彼は電話を切った。
ツーツーと寂しい電子音が耳に刺さる情景を、僕はどこか遠くに見ていた。
* * *
喜びを。
哀しみを。
愛しさを。
苦しさを。
あなたに伝えられれるのなら、どれだけ嬉しいことでしょう。
あなたと共有できたのなら、どれだけ甘美なことでしょう。
届くことのないセレナーデ。
太陽が僕らを祝福してくれないのならば、月に語りかけよう。
明日が僕を待ち望まないならば、昨日という情景へ祈り続けよう。
僕のこの心が、破裂しないように―――!
秋の雰囲気を纏う半月を夜空に浮かべる9月の上旬。
夜の帳もすっかり落ちて、階下で兄が電話をしている頃、彼女はベッドに寝転がっていた。史人への恋心で自分の心臓が高鳴っているのが何もしないでも分かる。両腕を、抱きかかえている抱き枕にぎゅっと沈ませる。
―――あぁ、ドキドキする。
切ない気持ちが胸を破裂させるばかりの勢いで打つ。
そう、彼女―――史人の妹である朱美は、実の兄を好いていた。生半可な気持ちではなく、本気で。
……兄さん。
そう呟くだけで、名前を想うだけで心臓がきゅうと縮むような感覚に落ちる。身体全体が彼の全てを求めようとする。
慌ててそれを押さえつける。ドキドキと波打つ胸が自分の心を再確認させる。
あぁ―――やはり私はあの人が好き。
―――いつからだろうか。
3日に一度のペースでやってくる史人への慕情を倫理観と精神力で苦労して抑えつけた朱美は、暗闇の中そんなことを考えた。
いつから自分は兄に恋慕を抱いたのだろう。禁忌であると分かっているのに。いつから……。
目を瞑ってさながら映画の回想シーンの如く、頭のシアターに映し出す。
…思い出せない。
思い出すということは感情が芽生える前に、何かが起きていたということである。朱美にはそのときのことが脳裏に浮かんでこなかった。
否、浮かんでこないという表現は適切でない。映し出されるものが多すぎてどれをその感情に結び付けていいのか分からないといったほうが正しい。
初めて一緒に遊びに行ったときのことか。または迷子になったときにボロボロになりながらも探しにきてくれたときか。はたまた褒められて優しく撫でられたときのことか。挙げればキリがない。そして、はっきりとこれだということは出来ない。
だが、どれでもいいような気がした。どれにも優劣なんてつけることはできない。大切な時間だったのだから、どれが一番という順位は決められない。
ただ言えることは、兄と過ごした時間がこの気持ちを育てたのだから、無駄な時間など刹那もなかったということだ。
目を瞑れば浮かんでくる彼。
微笑む顔。照れる仕草。意外と武骨な掌。昔は嫌いだったクールな言動。
嫌いなところを含めて全部好き。
「は……ぁ……」
胸を締め付ける感覚を、朱美はどうしていいか分からない。やり場のない恋慕が自分を襲い、翻弄する。これ以上、抑え付けることなどできない。そう思ったのは、これで何回目だろう。―――それも明日までだ。
どうにも眠れそうになくて、朱美は兄の部屋と繋がっているベランダに出てみた。空や月よりも先に自然と目が向かうそこ、史人の部屋。電気は点いていない。少し、寒い。心と身体の両方が。
階下から古いゼンマイ式の時計の音が3回聴こえた。時刻が午前3時だということを知らせてくれた。ベッドに入り込んでから2時間も経っていたことに驚く。
「そりゃもう寝てるよね……」
ベランダに出た瞬間はそこで鉢合わせたりしないかな、と甘い幻想を抱いていたが、古臭い時計の音で気がついた。普通は深夜3時に部屋から出ることなどない。だけど、それでも期待せずにはいられないのが乙女心というわけで。朱美はロマンスの神様にちょっと拗ねてみたりした。
朱美は元いた場所から3mほど移動して、史人の部屋の前に立っていた。
窓にカーテンは掛かっていなくて―――史人は月明かりが好きだったから―――、部屋の外からでも内部がよく見える。
朱美がそっと覗き込むと史人は、ノートを広げながら机に突っ伏して寝ていた。スタンドライトが腕枕をしている文人の顔を照らす。
―――頑張ってるんだ。
3ヶ月ほど前、兄が大学を受験するという話を聞いた。6月ということで本格的に進路を決める時期だったのだ。
どんな大学?と訊ねると、神妙な顔をして「東雲教育大学」と答えた。
それを聞いて朱美は焦ったのを覚えている。東教大といえば近隣の県の中でもトップの大学だ。偏差値は70を超えていて、倍率も高い。見た目通りに頭が良い史人ならば頑張れば何とか入れるレベルなのだが、偏差値50そこそこの朱美にとっては雲の上の存在だ。それに、場所も遠い。
必ず同じ学校に入ろうと決めていた彼女は、頭を鉛でガツンと叩かれたような感覚を覚えた。
「あと半年しか、同じ学校に通えないのかな……」
思わず口に出たその言葉を理解したとき、体中に秋風のような肌寒いものが吹いた感じがした。
―――寂しい。
無意識のうちに窓を開け、史人の部屋へと入っていく。流れるように、彼の身体の元へと。
スタンドライトの電気を消し、月光でのみ彼を照らし出す。細い身体だ。無駄な脂肪など一切付いておらず、細い顔立ちと相成って気弱さを演出する。
そっと頬に触れる。さらさらと流れるその肌は髭という存在を忘れてるかのようだ。
愛しいという気持ちが膨れ上がっていく。熱病のように。
「あぁ……兄さん……」
朱美が小声でそう呟くと、史人の口が僅かに開く。
起きてしまった!?と僅かに史人の身体から離れる。しかし、史人の方は何のモーションも起こさない。呼吸は先程と同じく、穏やかで静か。
「…………」
どうやら気付かれてはいないと確信した朱美は再度近づいて、その身体に手を伸ばす。
流れる髪をそっと指で梳いてみる。細いとはいえない黒い髪が指の間を流れていく。愛しむようにそっと頭を撫でたり、くるくると男性にしては長めの髪をいじってじゃれてみる。
そのとき。
「…あい……して…る……」
ドクン!と。
心臓が跳ね上がるのを朱美は確かに感じた。
今、兄はなんと言った?
アイシテル?
誰を。何を。
だが、史人の唇はそれ以上何も紡がずに、寝息を立てるだけであった。
バクバクと3kmを全力疾走した直後のように朱美の胸は脈打ち、呼吸さえままならない。だが、覚えている。愛してると。確かに史人の口はそう言ったのだ。
誰を。何を。と心がせがむ。
しかし寝息を立て続ける彼はそれ以降何も言わず、朱美は眠れぬ夜を過ごす羽目となった。
* * *
翌日。
授業を全て終え、周りの男子生徒たちと談笑に耽っていた隆彦はトイレに行くといっていったんその場を抜け出した。
男子トイレに行く途中、思いを馳せるのは史人と―――その妹のこと。
史人のやつは相変わらず無愛想だったよな。と昨日の電話の内容を思い出して、内心で薄く笑う。そして深夜に電話をしてしまったことに多少罪悪感を感じる。だが、それも頼まれたことだから仕方ないよなと気を取り直す。
―――そう、頼まれたのだ。
次に考えるのは彼女―――朱美のこと。
彼女とは史人と同じく幼なじみであり、仲の良い妹のように隆彦は思っている。史人と出会って既に10数年。幼い頃は3人で一緒に遊んだものだと隆彦は感慨に耽る。
兄とは違い、素直ないい子だよなと微笑する。短い黒髪とぱっちりとした目が活発な印象を持たせる彼女は、いつどこでも人気だった。
「それが、まさかなぁ……」
トイレへと入り、彼は鏡の前で身だしなみのチェックをする。髪を指先で直しながら思うは、親友2人。
いけないことであると、禁忌であると言ったにも関わらず、言い切った彼女。
多少戸惑ったが、素直に応援してやると誓った。それであの2人が幸せになるのなら。
「がんばれ、妹。逃げるなよ……」
小さく呟かれた声だったが、それはその場によく響き渡った。
まるで、相手に伝われと言わんばかりに。
リノリウム張りの誰もいなくなった廊下を歩く。
カツカツと響く音が妙に耳に残る。あぁ1人だなと自覚すると心が落ち着くと同時に一抹の寂しさが襲ってきた。窓から差し込む夕日がやけに赤く見える。
―――こんなにも落ち着いているのは、夕日の魔力か、他の何かか。
残念ながら、その何かは特定できなかった。心の奥に確かに眠っているのは感じるが、それは得体の知れないものだった。
だけど何故か不安ではない。
どうしてだろう?と考えていると、指定された場所―――つまり隆彦が在籍する教室に到着した。
一体これから何が起こるんだろう。僕は今更になって多少思慮した。けれども僕は超能力者ではないし、先読みなんてこともできないただの学生なので分かるはずもなかった。
がらりと音を立て、まるで僕の手が動かされたかのように自然と扉が開いた。立ち止まって、周りを見渡すと、窓際に1人の女性がいた。
窓の外に視線を向け、物憂げな表情を浮かべているのは―――
「兄さん……?」
彼女、だった。
兄さん、と小さくしかしはっきりと伝わる声量で呟いた妹は夕日に照らされ、すごく綺麗に見えた。
朱色に染まる彼女は、名前の通りに美しかった。
はっきりと分かる。
僕は、やはりこの子―――いや、この女性を愛している。
「朱美だったのか……どうしたんだ。こんな時間に呼び出すなんて」
「うん……」
小さく頷いた彼女はいつもと少し違って見えて。いつもぱっちりと開いている瞳も細く閉められていた。
きゅっと絞められた唇が、どこか強い決意を持っている気がした。
何か、起きる。
―――そんな、予感にも似た確信。
「ねぇ兄さん」
「ん?」
僕と目を合わせず、窓の外を眺める彼女。彼女の視線の向こう側からは部活に勤しんでいる人たちの声が聴こえる。
少し、歩く。閉鎖された空間を作りたかったのか、僕の腕は無意識に後ろ手で扉を閉めていた。カツカツと鳴る音が、僕に襲い掛かる出来事のカウントダウンに聴こえて、落ち着いていた心臓が波打ち始める。
少しだけ視線を僕に向け、再度空を見つめる朱美が僕に話しかける。
「兄さんは、私のこと、どう思う?」
ドクンと、急すぎる質問に僕の心臓は跳ねた。
どう思う?とは、どういうことだろう。どうして、そんなことを訊ねるのだろう。
―――本当は、分かっている。
だけど僕の理性がそれを形にするのを止めている。ここで本音を出してしまえば、今まで築いてきた城砦が、一気に崩れ去る。
「どうって……どういうことだよ」
「そのままの意味だよ。私のこと、どう見てるのか、どう思ってるのかが知りたいの」
淡々と、しかしはっきりと話す彼女はまだ僕の方を見ない。夕日に隠された彼女の顔からは何も読み取ることが出来ない。
だけど、どんな気持ちで話しているかは大体は分かる。
血の繋がった兄妹なのだ。今まで何年間一緒にいたと思ってる?
「…………」
だけど、僕の口は言葉を紡ぐことを躊躇っている。晒してはならない、と。
黙っている僕に、朱美が追い討ちをかけるかのように言葉を噤む。
「兄さんは……東教大に行くつもりなんでしょ?」
「……あぁ」
「…そうしたら、殆ど会えなくなるんだ」
「…………」
寂しそうに呟く彼女がやけに小さく見える。
自然と腕が伸びそうになる。だけど、伸ばしかけた手は途中で力を失い、元の位置に垂れる。
どうして、どうしてこんなに僕らは苦しんでいるのだろう。
言ってはいないが、朱美だって僕のことが好きだ。それは、いつもの行動で分かっている。
…どうして、僕らはこんなに気持ちを隠してなければいけないのだろう。この、閉鎖された教室のように。
「そんなの嫌。離れるなんて考えたくない。兄さんのことが好きだから。本当に、どうしようもないくらい」
「あ……」
漸く僕の方を向いた彼女は、今まで積み上げてきた石垣をいとも容易く壊した。
いや、元々砂上の楼閣だったのか。それほど、僕の意思は酷く堅牢で最も壊れやすかった。
揺れる。揺れる僕の心。
あぁ―――……。
求めよ、と僕の中で誰かが叫ぶ。
いいじゃないか、と誰かがそそのかす。
このまま流れに乗って抱きしめてしまえばいいじゃないか、と誰かがささやく。
……―――ダメだ。
キッ、と僕を真っ直ぐに見つめる朱美。その瞳には強い意志が宿っていて、僕の心はその視線だけで壊れそうになる。僕も愛していると言って、抱きしめたくなる。
だけど、だめだ。そう僕の心が流されかける僕に待ったをかける。
好きだけど、愛しているけれど、ダメだ。
「……僕も、好きだよ。……でも、まだダメだよ」
「どうして! 私のこと好きなら……なんでダメなの!?」
まだ高校生という身分。親の世話になっている僕ら。
そんな血の繋がった兄妹のことなど誰にも祝福されるわけがない。いや、大人になっていたとしても祝われることなどありはしないが。
そして、何より…朱美より僕のほうがだめになってしまう。
そういう関係になってしまったら僕は朱美を離しはしなくなるだろう。
他の男になんて見せたくない。僕以外の奴に近寄って欲しくない。
子供だと自分でも思う。
だけど、それほど彼女を愛している。
「…………」
どうしてだろう。
断る理由など両手では数え切れないほど思いつくのに、どれ一つとして僕の口は紡ぐことを拒んでいる。
彼女が僕のほうに近づいてきて、その細い腕をゆるやかに伸ばす。
指が、僕の胸に触れる。
「どうして……他の人が気になるの? そんなことないよね……だって私は気にならないもの」
「……っ」
そのままキスされた。
まるで元は一つだったかのように自然に重なり合う唇。
啄ばむように小さく音を立てて、朱美は触れてくる。そして上唇から、下唇かけて舌でなぞられる。
周りから責めてきて、時折唇の真ん中をノックされる。
ありえないほどの、刺激。
目を瞑っている彼女に対して、見開いている僕。
身体に触れてきた朱美に対して、拒んでいる男。
どうしてそんなに落ち着いているようにできるのだろう。
どうしてこんなに振り回されるのだろう。
そして、朱美の舌が僕の唇をこじ開けようとする。
もっと触れ合いたいと。何よりも激しく、求めていると。それは僕の方も同じだった。本能のままに、求めてしまえばいいと思う。
だけど。だけど―――
「……え?」
限りないほどの、かつてないほどの力を振り絞り、唇から身を離す。
呆気にとられて、閉じていた瞼を朱美は見開いた。目が点になるというのは、まさしくこのような状態のことをいうのだろう。
一瞬だけ躊躇して、だけど決断して。―――そのまま思い切り抱きしめた。
感じる、鼓動。波打つ、心臓。
あぁ、落ち着いているなんて嘘だった。
美しく優雅に近寄ってきた彼女は、嘘だらけだった。
だって、こんなにも胸が高鳴っている。
夕日の所為で見えなかったけれど、本当に朱だったのは彼女のほうだった。
本当は緊張してたんだな、と理解すると、何故だか僕の心は落ち着いていった。
「やだ、やだよ。こんな、抱きしめるだけなんて嫌だよっ。ねぇ!」
「………朱美」
「壊れさせてくれたっていいから! もっと、もっと愛してよぉ……」
駄々っ子のように僕の胸を叩く彼女。涙を流し、手を握り締めて、僕に当たってくる。
―――あぁどうして。ちっとも痛くなんてないのに、どうしてこんなに胸がズキズキするんだろう。
彼女の涙が、服だけじゃなくて、僕の心まで濡らしていく。
為すがままにさせてると僕の心は凍えすぎて裂けてしまいそうな気がして。
僕は強く、彼女の頭を胸に押し付けさせた。
ゼロ距離になる2人の間。
流れる後ろ髪の中に掌を刺し込み、朱美の肩に顔を乗せる。優しく、傷をつけない様に後頭部を撫でてやる。
涙が止まるように。落ち着いて、周りが見えるようになるまで。温もりが、僕の心を癒してくれるように。
そのまま、5分ほどが過ぎた気がする。
漸く泣くのをやめた彼女は、きゅぅと腕を僕の背中に回し抱きしめた。
そして、僕は語りだす。
「朱美……僕の言うこと、ちょっとだけ聞いてくれないかな?」
「…………」
声が出ないのか、それとも別の理由か。朱美は何も言わなかった。
僕はそれを無言の肯定として受け取り、先を話し始める。
「ねぇ朱美。僕のことを好きなんだろう? 僕も、大好きだ。でも、でもね。僕らはまだ高校生なんだよ。それは分かってるだろう?」
「…………」
「兄妹なんだ。血の繋がった兄妹なんだよ。僕らがどんなに愛し合っていても、世間では認められないんだよ」
「……それは分かってるけど、でも好きなんだもん」
「…うん。でもだからってこのまま付き合ってもいいってことにはならないんだ」
「……でも」
優しく語り掛けると、漸く彼女は返事を返してくれた。それが、嬉しい。
「うん、愛してる。それは分かってるよ。だからさ、あと2年待って欲しい」
「……2年?」
頭の上にクエスチョンマークを何個も浮かべる彼女。目尻に涙をうっすらと溜めながら首をかしげる姿が可愛すぎて、困る。
いつの間にか僕の掌は彼女の頭を撫でていた。流れる黒髪がさらさらと僕の手を滑っていく。
「うん。2年。今朱美は2年生だろ? だから、大学生になるまで待って欲しいんだ」
「どうして……」
「大学生になれば母さんたちと離れて暮らせる。誰にも後ろ指を指されない。それは逃げだけど、臆病な選択だけど、僕はそれしかないと思うんだ」
「……兄さん」
「ごめんな、弱い兄貴で。でもさ、こうでもしないと朱美が世間から非難されるんだ。苦しむ姿なんて、見ていたくないんだよ」
「…うん」
「守ってあげたいけど、すぐにでも君を奪い去りたいけど。それが出来ないんだ。それに……」
「それに……?」
「僕よりいい男が朱美の前に現れるかもしれないし、とか思ってる」
「そんなこと……っ」
何かを反論しようとする朱美の口に軽く唇で触れて、黙らせる。
さっきとやってることが違うという反論が来そうだが、今だけは、許されると思う。そんな気がした。
「無いとは言い切れない。だから、それを含めて2年待ってって言ったんだ」
「…………」
唇に自分の指でそっと触れて、ぽーっと夢うつつ状態の朱美。
「それと、一つハードルを与えたいと思う」
「……ハードル?」
はっと我に返り、僕の瞳を覗き込んでくる朱美。何を言われるのだろうと困惑しているのが、よく分かる。
その姿すら、愛しいと思った。
「そう。僕と同じ大学に来ること」
「そんなっ……無理だよ。私、頭悪いもん」
「悪くは無いよ。僕の妹なんだから。努力すれば、必ず受かる」
「……そんな」
「朱美ががんばって、僕と同じ大学に来られたら、そのときは一緒に暮らそう? 二人っきりで」
「…………」
「学校が終わったら真っ直ぐ家に帰って。そして勉強する。分からないところがあったら僕に聞けばいいんだ」
「……ん」
喉で軽く鳴らして返事をする彼女の顔をくいっと引き寄せ、胸にしまいこむ。
横顔が、胸元に当たる。全てを委ねてくれているような感覚になり、穏やかな気持ちになる。
「……ま、そんなこと言ってるけど、朱美に外の男を見せたくないって言うのが本音なんだけどね」
「……兄さん」
かなり恥ずかしい言葉を言って、僕は彼女から身を離した。
ぽんぽんと頭を撫でてから、教室の外へと向かう。
さぁ、幕は上がっていった。
これから僕らはただの兄妹へと戻る。閉鎖されたこの空間から出たその時点から。
彼女が鞄を持って、小走りに追いかけてくる。
それを確認して、僕はゆっくりと歩き出す。
学校から出て、いつもの通学路を二人で歩く。
まるで恋人のように。されどただの兄妹のように。
ゆっくり、ゆっくりと。
...Epilogue
TOP - NOVEL