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シャボン玉 「……して…ください」

泣きながら、彼女はそう言った。









シャボン玉
Presented by 三式









―――白い。
惣子は歩みを止めて立ち、空を見上げた。
綿を思わせる柔らかな雪たちが、灰色の雲から降ってくる。雪は1時間ほど前から振り出してきた。既に道路や歩道をパレットのように染め上げている。

惣子が佇んでいるのは市内にある小さな公園であった。惣子にとっては馴染み深い場所である。昔からここで遊んで、泣いて。そんなことをした場所である。
ブランコ、滑り台、ベンチ。どれを見ても、いつ見ても変わらないその姿で残っていることに、う、と惣子は不意に泣きそうになった。
変わらない―――そう思った瞬間に涙腺が緩んでしまったように。だけど、堪えた。鼻の奥がツンとなるが啜ってこらえた。

公園は雪で白く染まっていく。土色の地面もそれで埋め尽くされていく。
惣子の頭、肩に積もっていく粉雪たち。冷めていく身体。どうせならば、心まで冷たくしてくれればいいのにと惣子は切に願った。
しんしんと鳴っているように積もる雪の音が惣子の耳を通り抜けてゆく。惣子は、はぁと熱い吐息を両手のひらに浴びせてこすり合わせた。
心は凍りつけばいいと思っているのに身体を暖めようとする自分が情けなくて惨めに感じた。矛盾ばかりだと自嘲する。

惣子は先日成人式を迎えたばかりのOLである。
高校を卒業してすぐに就職し、何気ない人生を送ってきた一般的な女性の一人だ。
趣味は読書とピアノで、どちらかといえば内向的な女性である。

惣子はその場できょろきょろと辺りを見回す。
誰かを見つけるかのように。誰かを待っているかのように。
そう、それが惣子のたった一つの心残りだった。


藤間 茂はある企業の敏腕サラリーマンだ。彼も有名高校を卒業して進学せずに就職した。仕事を始めて今年で4年目になる。
彼は何事にも冷静に、そして真剣に取り組む姿勢から会社では有望株として一目置かれている存在である。人当たりのよい性格のため、上司からも気に入られている。
そんな彼はこの日は残業をし、夜9時を過ぎてからの帰宅となった。
友人の社員たちは既に仕事を済ませて帰っている。確か飲みにいくとかはしゃいでいた筈だ。
しかし今から行くのもなんだと思い、ここは素直に変えることにした。
歩き、電車に乗り、最寄の駅で降りる。いつも通りの帰り道だった。たかが30分で着く短い道のりだ。
ふと、空を見上げる。薄暗い雲が夜空を覆う。そんなところから降るのは白い冷たい結晶だ。

「雪だ……寒いな」

口に出すとより一層そう感じられる。
早いところ家へと帰って暖まりたいという欲求が彼を支配する。
―――近道をして帰ろうか。
ふと、そんな考えが浮かんでくる。寒いし、早く帰れるし、そっちのほうがいいと結論付ける。街灯が少なく、暗い夜道になってしまうのは仕方がないと割り切った。
進路を変えて歩き出す。
さくさくさくと一歩踏み出すたびに足元からはそんな音が聞こえてくる。
汚れが真っ白な細雪を染めていく。汚れ。
自分が穢してしまったあの人はどうなったのだろうと藤間は想像した。
元気だろうか、何をしてるんだろうか。足が自然とあの公園へと向かう。
いつも待ち合わせた場所、いつまでも語り合っていた場所。
不意に寂しくなる。あぁ、どうしてこうなった。どうして捨ててしまった。
涙が出そうになるのを必死で堪える。涙は流さないと、あの日に誓ったから。
代わりに求めの懇願を言語で表す。声が震えて、情けない響きになったが、それは切れそうな寒空にすっと吸い込まれていった。

「そう、こ……」

願ったその行為は結果は、幻想か。または泡沫の夢か。
ふと何気なく横切るつもりだったそこには、かつての自分の半身とも呼べる人がいた。

「とうま、くん」

彼女もこちらに気付いたようで、自分の呼びかけに反応した。
震える声で。
その原因は、寒さからだろうか。それとも。

彼女の声を聞いた瞬間、藤間はズキ、と心を痛めた。
―――藤間くん?
聞きなれない呼称。どうしてそんな風に呼ぶのだろう。だってほら、以前は。

「どうしたんだ惣子。こんなところで。寒くないのか?」
「……うん」

藤間と惣子は互いに近寄ることはできない。双方と付かず離れずの距離で立ち尽くすだけだ。
まるでそれが自然の距離だといわんばかりに。他人とも、恋人とも似つかないその距離で。心だけが離れてしまったかのように。

「…………」
「…………」

静寂が場を支配する。聞こえるのは細雪が奏でる清閑な音と二人の息遣いのハーモニーだけだ。
藤間は何もせず、何も語ろうとせずそこにいた。それは惣子が何かを言おうとする仕草が見えたからだ。
それは藤間独自のカンと、長年惣子と共に暮らしていた経験からである。
寒くなって藤間は掌に息を吹きかけた。じわりとそこに広がる暖かさを感じながら、藤間は惣子を見つめた。

―――懐かしい。

頭の中には過去に惣子と過ごしてきた情景が蘇っている。海にも行った。映画にも行った。カラオケにだって、ゲームセンターにも行った。
ただそれでも、一番残っているのはこの場所でのことである。
一番最初に出会った場所。最も多くの時間を共有した場所。



「ねぇシゲちゃん」
「ん? 何、惣子。腹でも痛いの?」
「違うよ、お腹なんて痛くないよ」

おどけた様に幼い惣子は笑う。つられて幼い藤間も笑う。
土で汚れた服がやけに二人には映える。温かな夕日が二人を照らしている。辺りには誰も居ない。
惣子と藤間は同時にどきりとした。理由もなく高鳴る胸に戸惑いを隠せない。

「ね、シゲちゃん。」
「…なに?」

惣子が藤間の瞳をじっと見つめる。藤間も見つめ返す。

―――ほっぺに泥がついてるよ、惣子。

一瞬だけそう思った藤間だったが、そうは言えなかった。真剣な瞳がそれをさせなかった。
雰囲気が暖かい。目は真剣なくせに穏やかな表情を浮かべあう二人の間には壁なんて存在してなかった。そう、このときは。
瞳と瞳が交差する。それは愛の告白にも似た儀式だった。

「シゲちゃん。これからも一緒にいてくれるよね」
「…当たり前だよ。大人になったら、結婚しよう」
「う、うんっ。約束っ。」
「うん、約束」

本当に嬉しそうに照れる惣子を見て藤間は微笑む。それは何かを決意した後の達成感にも似た微笑だ。
自然な流れで家に帰ろうかと足が外に向かう。歩き出す瞬間に藤間が頬の土を掃ってやると、惣子は真っ赤に顔を染めた。

「結婚、かぁ…。ねぇシゲちゃん。私、綺麗なお嫁さんになれるかな?」
「惣子は可愛いから大丈夫だよ。僕がほしょうする」
「本当?真っ白いウエディングドレス着ても笑われないかな?」
「笑われないよ。もし笑われたら僕がやっつけてやるさ」

手を繋ぎながら、誇るように、守るように藤間は口に出す。その顔つきに惣子は一層の胸の高鳴りを感じた。
惣子のそれは家に着いてからも落ち着くことはなかった。自室に居るときも、風呂に入っているときも、繋いだ手の暖かさが惣子を支配し続けていた。


転機があったのは惣子が高校1年のときだ。藤間と2歳年の離れている惣子は中学時代、自分の進路のことで悩んでいた。
惣子の学力は高くはなかった。県内のトップクラスの進学校には進めないにしても、ある程度のところならば狙えるといったレベルである。
比べて藤間は惣子からは雲のような場所に居る人であった。走ること以外、特に球技に関しては下のランクにいる彼だが、学力は高かった。それは何事にも懸命に取り組む姿勢の賜物だった。陸上部で走りこみ、勉学に力を入れるその姿に教師たちはみな感心したものだ。おかげで藤間は公立校でトップの学校に進学することが出来ていた。
中学1年から、幼い頃の約束を守るように藤間と惣子は交際を始めていた。藤間は陸上部で活動していたためさかんに遊びに行くことはできなかったが、それでも月に2度の休みには惣子とデートをしたものだった。部活で疲れているだろうに、と心配する惣子だったが、それでも自分のために行動してくれる彼に甘えていたものだった。家同士も近場だったため、特に負担はかからなかったのである。
そうして、それから1年の付き合いを通しながら惣子は進学した。本当ならば藤間と同じ学校に進みたかったのだが、惣子は落ちてしまった。
そのために惣子は藤間の学校と逆にある私立の学校に入学したのである。

私立高校に入学して惣子はバスケ部のマネージャーとなった。友人と一緒に選んだ部活である。学生の活気に中てられて惣子は自分が活発になったと自覚するようになった。今までは自宅で大人しくしているだけだったのだが、人並みに友人と買い物に出かけるようにもなった。そして藤間との付き合いは保っていたが、昔よりは薄れていた。
藤間は相変わらず陸上部で活動していた。陸上の強豪校として有名なそこは藤間にとって居心地が良かった。元々筋は良いのである。ライバルと呼べる仲間も出来て、藤間はより一層部活に取り組むようになった。疲れ果てて、惣子のことを後回しにしてしまうこともあったのだが、それでもこの時間は手放せないものであった。

そして、藤間と惣子は自然消滅という形となっていった。駅内などで見かけてもお互い一言だけの会話をする程度の仲になってしまった。惣子が高校2年のときである。
藤間は就職して、仕事をすることになった。さらに二人は会うことは少なくなった。



「…………」

惣子が開きかけた口を閉じる。ぁ…と蚊が鳴くような声は出たが、その先を口に出すことは出来なかった。

「…そういえば、さ」
「……?」

代わりに藤間が声を出す。顔は惣子を向いてはいなかったが、惣子は別に気にしなかった。

「俺たちが一番最初にあった場所もここだよな」
「…うん」

藤間は少し歩いて近くのブランコに手を触れさせる。
急激に掌が冷やされたが、そこに残る思い出が暖めてくれるような気がしていた。
さらに歩く。

「んで、惣子が泣きながら俺に告白してきたのもここだったよ」
「…ん」

恐らく現在藤間が立っている場所がそのときの処なのであろう。中途半端な位置で歩みを止めては、郷愁に目を細めた。

「本当はさ俺が言おうと思ってたのに。テストの後にしようかと悩んだんだけど、惣子が3日前に言い出すからなぁ」
「…うん」
「おかげで舞い上がっちゃって、そのときのテストは散々だったよ」
「……ごめん」

藤間は惣子に近づいていく。そして彼女と3mはあろうかといった場所でまたも止まる。

「……そして、最後に二人で来たのもここだった」
「…うん」
「あの頃は部活に夢中だったから、惣子と一緒にいようって気持ちが足らなくなっていたよ」
「それ、は」
「いやいいよ。俺が全面的に悪かったのさ。惣子が留守電を入れていても滅多に返さなかったのも俺だし」
「うん……」

藤間は全てを悟ったかのように微笑を浮かべた。身体や心は妙に落ち着いていて、今なら全てを許せるような気がした。

「……それで、惣子はこんなところで何をしていたの?」

優しく、限りなく優しく藤間は語りかけた。それは幼い頃から変わらない響き。
惣子は胸が熱くなった。まるで昔の恋心が再沸騰したかのように。変わらない。ずっと好きだった。この、藤間だけの優しい響きが好きだった。
泣きそうになる。堪えて、惣子は言葉を紡いだ。
―――最後の。

「藤間、くん…私、来月結婚するの」
「…………」
「相手は藤間くんの知らない人。会社の先輩なの」
「……うん」
「藤間くんよりカッコいいの。きっとお給料も高いの。好きだって。愛しているって何度も告白されたの」
「うん」
「交際もしたの。まだキスとかもしてないけど、色々なところに行ったの」
「うん」
「だから、だから…っ」

落ち着いてる藤間に対して、惣子はぼろぼろと大粒の涙を流す。瞳は赤くなり、無意識に唇を噛んでしまう。


「あの人より、先に……して…ください」

「…っ」

切れた。藤間の中で何かがぷつりと切れた。崩れ落ちそうになる惣子の腕を思い切り引っ張り、胸に抱きこむ。
藤間の広い胸板に顔を埋め、惣子は背中に腕を回す。

「…好き、だったの。愛してたんだよ、シゲちゃん…っ」
「あぁ…っ」
「でもシゲちゃん、そんな素振り、見せなかった…っ。だから、だからぁっ」
「……っ」

何も聞きたくないと言わんばかりに藤間は惣子に口づけした。舌を差し出し、絡める。一瞬のことで惣子は何をされているか分からなくなった。ただ舌を縮こませるだけだ。
構わないというように藤間は情熱的だった。歯茎を舐め、唇を吸った。惣子が何の動きを見せなくても構わなかった。

―――本当は、愛していた。

心の底から好きだったのだ。冷たくしてしまったこともあったが、それは惣子を傷つけたくなかったから。それと、安心感からだ。惣子が自分以外を好きになるはずがないという自惚れだった。愛していた。いや、今でも愛している。関係はなくなってしまっているが、愛しているのだ。
傷つけたくない、惣子なら大丈夫だと驕っていた自分が悪いのだ。そんな自分に、彼女にやめてくれと言う資格はない。
本当はこんな口づけをする資格すら存在しないのに。

「……っ」

ちょうど1分後、藤間は惣子から唇を離した。先ほどより泣き出してしまった惣子を見る。
可愛い惣子。美しい惣子。いつも俺の後ろにいた惣子。俺だけのものだった惣子。

もう、見ることはないだろう。

俯く惣子の顔を軽く上げてやる。鼻を啜りながら自分を見つめる姿に藤間は自分も泣きそうになった。奥歯を割れるほどに噛んで、堪える。

「幸せにしてくれる男と結婚するって信じてる。だから、もうさよならだね」
「……っ、シゲ」
「もう会うことは無いだろうから、言っておくよ」
「…まって…」
「誰よりも愛していたんだ。惣子が僕を想うよりもずっと」

惣子が何かを言おうと口を開く。ただ、それよりも早く藤間は言う。

―――さよなら

何の制止もされてないのに惣子は喋りだすことすら出来なかった。
ただ涙を流す惣子の姿を背中に藤間はいつの間にか立ち去っていた。
人目も憚らずに大声をあげる惣子。夜の雪の中に、彼らの涙は溶けていった。


シャボン玉のような恋。
水と溶液が混ざり合って一つになって。
空に溶けていくように、はじけてきえた。
 
 
 END
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