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――― 私がどんなことをしてでも守ってあげる ―――
そう言ったあの人は、俺を捨てた。
Summer
1:――夕日と安藤さくらと歩道橋と――
Presented by 三式
「ねぇお母さん。今日のご飯何?」
「うーん…何にしようか? カズは何が食べたい?」
「カレーっ!」
「じゃあカレーにしよっか。買い物行かなくちゃね」
「うんっ」
ファンファンと歩道橋の下を何台もの車が通り過ぎていく。
後ろから聞こえるのは何の変哲もない親子。
幼稚園児ほどと思われる男の子と母親が手をつないで歩いている。
「…………」
夏姫は手すりに肘をつきながらため息を吐いた。
―――親子。
恋人じゃない。夫婦じゃない。友人でもない。
親と子供。
恐らく、この世のどんな関係よりも深く強い絆と云う鎖がその間にはあるのだろう。
夕暮れに染まっていく町。
さっきから何度も何度も同じような人たちが彼の後ろを通り過ぎていった。
夏姫の手が血の気を無くすほど強く握られていく。
―――……壊してやろうか
夏姫の胸の奥に、そんな気持ちがふつふつと湧き上がっていく。
何もかもを破壊してしまいたいと本気で思った。
俺にはない、そして彼らにはある暖かな温もりが羨ましくて。
ギリッ。歯がこすれた不協和音ではっと我に返った。
「フ…フフッ……」
思わず口から奇妙な笑い声がくつくつと出た。
なんて愚かな考えだろう―――と夏姫はため息と一緒にそんな気持ちを吐き出した。
自分にはないから、不平等だから破壊してしまいたいだなんて。
いかれた考えだ。
だからなのかもしれない。こんな生活になったのは―――。
程なくして夏姫は道路を見下ろすのをやめた。
―――そろそろ帰ろうかな……誰も待ってなんかいないんだけど。
夏姫は家に帰るときに、必ずといっていいほどこう思っていた。
あの家には誰も居ない。
帰ってみても玄関の鍵は開いていないし、ましてや温かいご飯が待ってるわけでもない。電気すらついていない。
いつまで経っても慣れることはなかった。
少しだけ耐性はついたのだろうけど、順応するということはなかった。
誰もいないところに『帰る』という表現は間違っている、と夏姫は考えている。
結局何もすることがないので、帰ろうとした。
数歩歩いて歩道橋を降りようとしたときに、後ろから声が聞こえた。
何故か、聴きなれてる、声が。
「夏姫……くん? うわっ、偶然だね! こんなところで会うなんて!」
夏姫が振り向くと、そこには驚きと歓喜の表情が7対3くらいの割合で混じっている女子がいた。
夏姫と同じクラスの安藤 さくらだった。
こんなところで会うなんて―――と、少しだけ動揺した心を抑えて、夏姫が口を開く。
「安藤か……何してんだ、こんなところで?」
「んーっとね、買い物。お母さんがさ、しょうゆ切れたから買ってこいって」
その言葉にまた身体がぴくっと反応した。
『お母さん』
なんだと云うのだ、そんな言葉が。
夏姫の胸が異様に高まる。頭の中がズキズキと痛み出して、夏姫を責める。腹の底は胸と反比例してどんどんと冷めていった。
―――どうでもいい。どうでもいいんだ。
目の前にいる同級生には動揺してることを悟られたくなくて、無理やりにそう思うことにした。
少しだけ暴力的な気持ちが治まったのかもしれない。頭の中が少しずつ穏やかになっていった。
「へぇ…安藤の親ならそういうの買い置きしてあると思ったんだけど」
一度深呼吸して、ちゃんと普通の言葉が出ますようにと願ってから、声を出した。
「へ? なんで?」
「え、いや、安藤ってしっかり者だと思うからさ。そんなキミの親だから、何かに困るって云うことってないのかなって」
夏姫の中では安藤さくらという人物は気の利く人、としてイメージ化されていた。
気の利く人といえば少し語弊があるかもしれない。単に世話焼きなのだ。
困っている人が居れば放っておけない性格と言えばいいのか。
誰にでも分け隔てなく接し、それでいて正義感も強かった。ただ、それ故に一部からは疎まれることもあったが。
だから、学校では異端―――というか孤独だ―――と認識されていた夏姫にも億尾もなく話しかけてくる。
愛想なしで、世間に疎くて、楽しむということを忘れているかのような寂しい青年に。特に、用事があるわけでもないのに。
「しっかり者かぁ……」
さくらは肩くらいまでしかない短い髪が風に揺れるのを抑えた。
彼女の髪は純粋な黒ではない。黒が純粋か、と訊かれたら口を噤むしかできないが。
黒は、何もかもを飲み込んでしまうから。
彼女のそれは色素が薄く、茶色に近い色だった。
初対面の人には染めているのかと訊かれるが、そんなことはない。
夏姫は一度だけその髪に触れたことがあった。
触れたといえば聞こえがいいかもしれないが、実際そんなにしっかりと触ったわけではない。
ひょんなの拍子に一瞬触れただけだ。
ただ、指先をさらさらと流れていくその感触は、この世のものだとは思えなかった。
会話を途切れさせるように彼女は遠くを見つめた。
どこか寂しそうに目を細めた表情が、とても綺麗だと感じた。夕日のせいかもしれない。
そう思ったのも束の間で、彼女は急に明るい顔に戻った。
「ね。なんで夏姫君はこんなとこに居たの? 買い物…じゃないよね? 何にも持ってないし……」
「…………」
夏姫は押し黙った。ここに来るのは日課に近いものだったし、どうしてと言われても困ってしまう。
質問に答えない夏姫を不思議そうにさくらは見た。
「……?」
顔が近すぎるかもしれない、そう思ったから、夏姫の声に不意打ちを受けた。
「好き……なんだ」
「はっ!?」
もっともらしい言葉を言ったはずなのだが……そう思った夏姫とは裏腹に、さくらはドラえもんがネズミを見たように、親がへそくりを隠しているのを見られたときのように、飛び跳ねた。
何とも素っ頓狂な声が出たもんだ―――と小さくどこかで冷静に思っている胸と反対に、口から出るのは驚きびっくりな声だった。
「す、すすすすすきって、なっ、なにがっ?」
99%は不意打ちを受けて動揺している身体なのに、日本語を喋れたのは奇跡と称しても良かったかもしれない。
と、後にさくらは思った。
夏姫は視線だけを道路に戻して口を開いた。どこか愁いを帯びた目にさくらの視線は釘付けになった。
そして視線とは裏腹に頭の中ではその口から何が出るのかと妄想爆発していた。
「(キミのことが……なんてなんて! そんなこと…そんなのっ)」
……多少、暴走気味な一面があるのだろう。
「こうやって日が落ちていくのを感じながら道路を見るのがさ。ほら、車が猛スピードで走っていくだろ? それを見てると時間が早く流れるような感じがしてさ」
「…………へ?」
…と、暴走した頭が一瞬で冷えた。
―――え、何? 今、なんて言ったの?
多少冷静な思考を失ったさくらを尻目に夏姫は自分の考えに耽った。
―――時間がゆっくり進むのは嫌だった。
俺にとっては楽しいことより、辛いことのほうが多いから、時間が遅いのは勘弁してほしかった。
一年なんか365日もいらない。100日あれば十分だ。
だけど、この世界はそうもいかない。
中には反対の意見の人もいて、1日が48時間あればいいのになどと言ってる人もいる。
どうしてだろう、と思う。そのこたえにはすぐに行き着いた。
その人たちは恵まれているから、幸せだからそう考えるんだ。
幸せを感じない俺には、到底たどり着けない処だ。
親すらいないのに、どうしたら幸せになれるんだろう。
「……? どうしたの、そんな顔して」
はっと夏姫は急に現実に戻された。右耳から左に抜けていったものはさくらの声だった。
「え、何? どんな?」
「なんかね。むーって感じになってた。むーって」
口をハの字に曲げて、眉間にしわを寄せた顔を作るさくら。
その形相は筆舌では何とも言い表せないが、敢えて言うなら『考える人』だろう。
「俺、そんな顔してた?」
「うん」
夏姫の質問に間髪いれずに一言で答える。
夏姫の前髪は長い。前髪に限ったことではないが、全体的に夏姫の髪は長い。
加えて元々眼光が鋭いのでそれをさらに細くすると、誰が見ても『不良』に見えてしまう。
それで世間から嫌われたことも、ある。
「……」
恐る恐るといったような表情だけで夏姫が問う。
それにまたしても間を置かずにさくらが言う。
「うーん。はっきり言って怖いかなー?さっきのは」
「…やっぱりな」
はぁ…と夏姫が深いため息を吐いた。
失うことは、別れは、怖い。
もともと繋ぎ止めているものが少ないと感じている夏姫。
夏姫がこの世で一番嫌だったのが、それを失うということだった。
何年も前に供がこの世で最も大切なものだと思っているもの――― 親 ―――を失くした夏姫。
その出来事が失うことの怖さを夏姫に知らしめた。
それも、『捨てられる』という最悪のシナリオで。
夏姫が自分とリンクしているものは限りが少ない。
胸に下げている古い玩具の鍵。小学校や中学校のアルバム。
―――さくらも例外ではなかった。
世間から見たらさくらが夏姫に付きまとって夏姫は適当にあしらっているように見えるが、実際は違う。
最初は本当にそうだったのだが、何度も話をするうち、夏姫は彼女を境界線の中の住人にしていた。
「初めて見た人だったら、ね。私はそんなこと思わなかったから」
「…………は?」
何か幻聴が聞こえたような気がした。
思わず、目が点になる。
「私は別に怖くなかったって言ってるの。そりゃー初めて見たときにはちょっとは思ったけど…もう何回も見てきたから」
―――なんかい、も?
最後の言葉が頭の中をリフレインして、ぐるぐると駆け回る。
たっぷりと10秒をかけ、その意味を理解したとき、夏姫は涙が出そうになった。
無理やりに、抑える。
「……そっか。ならいいんだ、なら」
「? …まぁいいか」
何やら納得してない表情だったが、さくらは頭を切り替えた。
と、夏姫の腕時計が6時のアラームを鳴らす。それと同時に街の街灯が一斉に光りだした。
さくらが、焦る。
「えぇ!? もう6時? あぁ早く帰らないとお母さんがキレる!」
「……あぁ」
ぽんといった感じでわざとらしく手を叩く夏姫。
―――そういえば安藤は買い物に来てたんだっけか。
そう思った夏姫の心は、何故か充実していた。
本人は自覚していなかったが。
「…じゃあ私、帰るね」
「あぁ、気をつけてな」
「んっ。またねっ」
歩道橋を走り降りていくさくらを見て、夏姫は一つ言葉を漏らした。
「……またね、か」
道路沿いの歩道を駆けていくさくらが見えなくなった後、夏姫はさくらと逆方向に歩き出した。
こんなに家に帰るときに充実しているのはどれくらいぶりだったろう。
それでも、何故か家に帰るのが惜しくて、夏姫の歩く早さはいつもより遅かった。
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