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「……出張、ですか?」

「あぁ。3週間ほど行ってきてもらう事になる」

「……あの街にですか」

「そうだ。以前、あの街に住んでいたという情報が用紙に書いてあったからな」

「…………」

「……どうした? 何か事情があるなら他の人に頼むが」

「いえ。行きます。それで、何時からでしょうか」

「出発は6月。ちょうどあと1週間後だな」

「…分かりました。では、仕事に戻ります」









Summer
3:――はじめてのおつかい――

Presented by 三式









「ぅ……ん……さみぃ……」


薄い霧が街を覆う。街は白く色付き静寂に包まれていた。

春も過ぎたとはいえ、午前5時という時間帯はまだ冷えた。

寒さに耐え切れなくなった夏姫の体が強制的に夏姫を眠りから叩き起こした。

名は体を表すというわけではないが、夏姫は寒さに弱かった。

だからといって暑さに強いのかと言われればそうとは言い切れないのだが。

身体を起こす。

汚れてしまった服と髪を叩きながら部屋に戻ろうとした。


ぐらり。


「っと……あぶねぇ……」


脚がぐらついて倒れそうになるのを壁に手をついてこらえる。

変な格好で寝たからか、少し身体がおかしい感じがした。

だが動くことはできるのだから特に問題はないだろうと認識し、部屋に戻る。

壁掛け時計で現在の時間を確認して、夏姫は灯油ヒーターのスイッチを入れた。

と、身体の違和感に夏姫は顔を顰めた。


……なんだか、歯の奥から後頭部が変な感じがする。


すっきりしないというか、もやもやとなっている感じを受けた。


―――…あぁ、今朝はまだ歯磨きしてないからか。


そう結論付けて風呂に向かった。

とりあえずこの寝癖がついている髪を何とかしてから歯磨きをすることにした。


夏姫の家は高校生が住むには大きめなアパートだ。

玄関から2mほど進むと右にトイレがあり、その向かいに洗面所と風呂がある。

さらに進みドアを開けるとキッチンとリビングがある。リビングの奥からベランダに続いている。

リビングから左に進むと、夏姫の部屋があった。

明らかに10畳以上ある部屋でクローゼットがついている。

一般に1LDKと呼ばれるそのアパートは、やはり高校生が一人で住むには豪華すぎる。

…一人では、この部屋は広すぎる。


ロンTを無造作に脱ぎ捨てた後、制服のズボンに手をかけた。


「(……手が悴んでベルトが外れない……)」


かちゃりかちゃりとベルトの金属がぶつかる音が脱衣所に響く。

夏姫はもうロンTを脱いでいるので上半身は裸だ。かなり寒い。

あぁ、目の前には天国があるのに―――!

ふと、ベルトが外れた。

がちゃり。


「よし……っ?」


声を出した瞬間、後頭部がズキンと痛んだ。

だが今は痛みより身体を温めるほうが先決だと脳内が信号を出す。

頭はズキズキと刺すように痛むが、それを無視して風呂場に入った。


シャワーを出した。

今日は寒いからいつもより少しだけ温度を上げて、出てきたお湯を頭からかぶった。

濡れた髪をかき上げ、簡易オールバックを作った。

何分かお湯にあたり、身体が温まってきたところでシャンプーを手に取る。

いつも通りに髪を洗う。

目に入らないようにだけ気をつけて汚れを落とし、お湯で流す。

お湯を被った際に前髪が目に入った。少し、痛い。

次にボディーソープをタオルにとり、身体を洗った。


夏姫の身体はお世辞にも筋肉が付いているとは言い難い。骨に最小限の筋肉しか付いてなく、服を着ないとひ弱に見えそうだ。

部活に入っていないのだから、それはしょうがないのかもしれない。

だが、それを差し引いても夏姫は筋肉があるとは言い辛かった。

原因は、身長が伸びるペースに筋肉が追いついていないことだった。

高校入学時では夏姫は165cmしかなかった。

成長期がくるのが遅かったのか、夏姫の身長は入学後から伸び始めて、今は178cmまで伸びた。

一年で13cm伸びたことになるのだが、体重は2kgと増えなかった。


シャワーで身体を流したあと湯船に1時間ほど浸かり、風呂から出た。

別に長風呂さんではない夏姫。今更ながらに少し長く入りすぎたと後悔した。

逆上せたかもしれない。頭がぐらぐらする。


「……寝たら、学校行けなくなるからな」


そう自分に言い聞かせた。

タオルで髪を拭く。薄いその胸や細い二の腕から汗が滲み出てきていた。

髪から身体へと拭く場所を変えていく。タオルが汗で一杯になろうとしていたが、汗はいつまで経っても止まることを知らなかった。

拭き始めて10分以上経つが、いつまでも止まらない。加えて何だか頭の中がぼーっとしてきた。

頭の中がくらくらしてきて瞼が自然に落ちそうになる。一度目は、根性で堪えた。

下着だけを着てよろよろとリビングへと戻った。

先程ヒーターをつけて部屋を温めていたせいか、リビングはむわりとした空気が充満していた。

いつもなら温かいと感じるその部屋が、今は途轍もなく不快に感じる。

未だに その仕事をやめようとしないヒーターのコンセントを無理やり引き抜き、風を送らないようにした。

暑い。

窓を開けて空気の入れ替えをしようと思い、おもむろにカーテンを開いた。


カーテンの 幕が引けた瞬間、眩しい光が夏姫の目をさした。

すでに太陽はその姿を青空に佇ませ、一日の仕事を全うしていた。

目に刺す太陽の光が痛くて、窓を開けっ放しにしてカーテンを閉める。

たったそれだけの動作なのに、身体はかなりの体力を消費していた。


―――…なんだか、疲れるな。


ソファーへと身を投げ出し、倒れこんだ。

さっそく瞼が落ちそうになる。

もう寝てしまうだろうという確信をどこかで夏姫は悟っていた。

このまま寝てしまったら、起きることができなくなってしまうかもという不安も持ちながら。

だがそんな不安も身体の命令には敵わなかった。

どうなってもいい。今は眠ってしまいたい。

最後の力を振り絞って、薄目で時計を確認した。

現在、6時半。


「(一時間くらいなら、大丈夫か…な…)」


そう思い込み、身体を楽にして本能のままに従った。

十秒と経たないうちに、夏姫はソファーの上で寝息をたてはじめた。



















* * *



















「それでは、次は今日の天気です。古河さん、よろしく」

「はい分かりました。えー、みなさんお早うございます。今日は私、瀬野区のTV局に来ていまして……」


古河とかいう天気予報士の話を聞きながらさくらは制服姿でトーストを齧っていた。

目はぼーっとしていて、遠目ではTVを見ているのかどうかはっきりしない。

肘がテーブルに置かれており、お世辞にもいい格好とはいえない。

左手が牛乳に伸びる。くぁーと小さくあくびをしてからそれを飲んだ。

チャンネルを変える。朝の時間帯というのはどこもニュース系の番組しかやっていない。

芸能ニュースとかやってないかな……。

サラダにフォークを指しながらそんなことを考える。実を言うとさっき違うチャンネルで芸能系は見たばっかりなのだが。

髪は寝癖が大量に。授業の用意はまだしていない。時間、後少ししかない。

だけど何故か急ぐつもりにはならなかった。今日に限ったことではないが、朝というのは何をするにも億劫なのだ。

―――ぱちん。

突然、目の前のTVが映像を映さなくなった。突然暗くなり焦る。

何々? 故障?

思わずリモコンを手に取ろうと手を伸ばすがそこにお目当てのブツはなかった。


「テレビ鑑賞のお時間は終わり。さっさとしないと学校に遅れるわよ」

「お母さん……はいはい。分かりました」


テレビを消したのはさくらの母だった。ピンクと白のボーダーのエプロンを身に着けてリモコンを手にしていた。

さくらはしぶしぶといった感じだが椅子から立ち上がって洗面所へと向かっていった。

娘がいなくなったのを確認してからさくらの母はテレビの電源を入れた。


「今日の天気はお昼過ぎから雨になりそうです。折り畳み傘を持っていくのがいいでしょう」

「雨、か……」


まだ青い空を見上げてそんなことを呟いた。

考えてもどうにも出来ないことをするほど愚かではない。気持ちを切り替えてさくらの母は食器を片し始めた。


















* * *

















「おはよー」

「さくら、おはよ」


教室前で屯っている友人たちに挨拶をしてさくらは教室に入った。

さくらの席は窓際の列にある。一列に7つほど机が並んでいて、それの前から3番目がさくらの席だった。

バッグを置いて、一息ついた。その後机の中から日誌を取り出して、ペンを持った。

毎日のさくらの仕事だ。これから遅刻者と欠席者のチェックをしなくてはいけない。

いつも遅れてきたりするのは決まったメンバーなので多少面倒くさいだけだからやめようとは思っていない。

時刻は8時20分。8時半が遅刻のレッドゾーンになる。

あと10分あるので他の項目を埋めることにした。まずは名前。その後現在の天気、授業の予定を書く。

少しボーっとしていると、チャイムが鳴った。

ペンを持ち直して少し待つ。2分ほどすると遅刻者3名ほどがやってきた。無論、全員男子。


「(佐藤君に利賀くんに渡辺くん……っと)」


と『渡辺』までペンを動かしたときに気づいた。『柳瀬』という場所だけチェックが入っていない。

ぐるりと教室を見回した。窓際の列の後ろの席がぽっかりと一つだけ空いていた。

それは夏姫の席だった。トイレにでも行っているのだろうかと思い荷物架けを見たが、そこには何も架かってはいなかった。

どうしたんだろう、と思う。

昨日偶然会ったときは元気そうにしていたから休みではないよねと結論付けた。

さくらはおろか、このクラス全員が夏姫が夜に外で酒を飲んでいることは知らない。

親はいないので注意する人物があの家にはいない。だからいつ風邪を引いても気づく人物はいないのだ。

担任が教室に入ってくると同時に号令をかけた。

今日も一日が始まる。










「……………………」

黒板を見て、ノートを見て、ペンを動かして。そんな半日常化と化している当たり前の行動を繰り返していた。

どうも思う。

漢文の勉強はする必要ってないんじゃないかな?

だって今時漢文なんて使う人いないんだし、日本人は読み方すら知らないんだし。

三角関数とか2次不等式とかよりも役に立たないような気がする。三角関数が役に立つのかどうかは置いておいて。

まぁ受けなくてはいけないのだから受けるけど、自分から進んでやりたいとは思わない。

時間は午後3時47分。あと少しで授業が終わる。

板書が終わりさくらはシャーペンを置いて一呼吸した。

目線だけを黒板から外し、教室の右端を覗き見る。

それは廊下側の後ろの空席だった。

柳瀬夏姫の席。とうとう彼は今日学校には来なかった。


少し前に気づいたことだが夏姫は学校を休むということは滅多になかった。

授業のサボりなどは中々に多くあるのだが学校に来ないことはほとんど見当たらない。

少しくらい体調が悪い程度だったら必ず来るのだ。前は38度も熱があったのにも関わらず青ざめた顔で授業を受けていた。

無論そのときはさくらが無理やりに早退させたが。

そうまでなっても学校には来ていた夏姫が休むということは絶滅危惧種IBに指定されている生き物が急激に増殖するよりも驚きだった。


「(何があったのか訊いてみたいけど、アドレスとか知らないし……)」


というか夏姫は携帯も普通の電話も持っていない。

帰り際に家を訪ねていくという手もあったが、さくらは夏姫の家に行ったことはないのでそれも無理だった。

―――今頃、家で何してるんだろ。

ふと、そんなことが浮かんできた。

まぁ十中八九寝てると思うんだけど。というか寝てなくちゃ困るというか。

でも風邪を引いていたとしてももう4時なのだから元気になって遊んでるかもしれない。

音楽でも聴いているのか、それとも本を読んだり映画を見たりしているのか。

そこまで考えて、気付いた。

夏姫の趣味や好きなものを何一つ知らないことを。

知ってどうするという気持ちもさくらの心の中にはあったのだが、無視。

友達―――だとさくらは思っている―――の趣味とかを自分が知っていても不思議ではないはずだ。

これで今度会ったときの話すネタができたかな?と思った瞬間、チャイムがなった。

少しだけ驚いて黒板に目を向けると、あぁ無情。さっき写したところはすでに消されていて新しいことがそこには書かれていた。


「(……誰かにノート借りなきゃ)」


時間も時間で文字を書いている時間すらなくなっていた。写すのを諦め教科書とノートをバッグにしまう。

そんな折に担任が教室に入ってきて、ホームルームを始めようとしていた。

起立と号令をかける。焦って微妙に声が上ずってしまった。

礼と皆を促し、椅子に座る。


「あー、特に連絡することはない。以上だ」


だったらいちいち号令かけなくてもいいじゃないと心の中で突っ込みを入れながら言った。さようなら。

示し合わせたように周りの友人たちは各々の放課後を満喫しようといろいろと話していた。

さくらがそんな状況を視界に入れながら日誌を書いていると、担任から何か呼び出された。

日誌を閉じ、廊下へと向かう。


「なんでしょう?」

「うん、ちょっと頼みごとがあってね」

「頼みごと?」

「あぁ。今日、柳瀬が学校に来なかっただろ? なんの連絡も入っていないからちょっとね」


さくらが主人不在の席を見ると担任は少しばつが悪そうな顔をした。


「どうも柳瀬の家は昼は親がいないみたいでね。本来なら私が届けるはずなんだが、私は急用が入ってしまってね」

「届けるって何をです?」


急用のほうも何なのか聞いてみたかったが、さすがにそれは失礼かもしれないと思い飲み込んだ。

担任は持っていたファイルを開き、一枚のプリントを取り出した。

それは数日前に渡されていて、さくらはすでに持っているものだった。


「三者面談……?」

「あぁ。明日学校の方に提出しなくてはいけなくてね。柳瀬はまだ出していないからそれを連絡したいんだが……どうも電話に出なくてなぁ」

「………………まさか」


さくらが何かに気付いたように目を見開く。

そんなさくらの表情を見て担任はニヤリと笑った。性格の悪さが窺えるなぁと思った。


「そのまさか。このプリントを柳瀬の家まで届けて欲しい」

「いいですけど……なんで女子の私が。第一それだったら仲のいい男子生徒に頼めば……」


そこまで言ってさくらは口を閉じた。

先ほどまでクツクツと笑っていた担任も少し困ったような顔をして二の句を紡ぎだした。


「……あぁ、柳瀬は男子と仲があまりよくないらしくてな。頼んだのだが話をしたことすらないと言う奴らばかりなんだ」

「………………」

「すまない。こんなこと私が言える台詞じゃないな」


声には出さないが全くだ、と心の中で同意しておく。


「まぁ暗い話はこれくらいにしておこう。話を戻すが、何故か柳瀬の家に連絡がつかないんだ」

「……で、私に届けて欲しい、と」

「その通り。何か用事でもあるのか?」

「いえ、特には」

「じゃあよろしく頼む。住所は知っているのか?」


プリントを手渡しながら担任がそう言った。さくらはそれを受け取りながらいいえと答えた。


「マンション『オルレアン』の301号室。そこだ」


さくらの返事を聞かないまま担任はそそくさと歩き出した。

さくらはその後姿が完全に見えなくなるまでそこに立ち尽くしていた。

見えなくなったのを確認してから教室に入り、プリントを二つ折りにした。


時刻は4時20分。

夏姫の住んでいるマンションまではここからだと凡そ20分かかる。


「ふぅ…………」


大きく息を吐いてからプリントをバッグに入れた。

心臓がバクバクする。まさかこんな形で男子生徒の家にいくことになるなんて。

顔が赤くなっていっているような気がしてきた。

まだ教室には何人か人が残っている。

逃げるようにそこから抜け出して玄関へと向かった。靴を履き替える。

自転車は持っていないので駐輪場を無視し昇降口へと。


―――いつもだったらここで左に行くんだけど……


今日は右に行くことになった。それは友達の家へと繋がる分岐点。

右折し、殆ど人がいない道を歩いていく。大抵の人は駅に向かうので左に行くから学生はあまりいない。

何故だか、走りたくなってきた。

だけどそこは女の子だからという理由を自分言い聞かせて抑える。まるで少女にでもなった気分だ。

夏姫の家へと向かう途中、跳ねる心臓を抑えるのが大変だった。


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