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「……ということで本社から臨時で三週間ここに勤めることになった柳瀬君だ。さ、自己紹介を」

広いオフィス。俗に仕事場と言われるその場所で女性は年配の男の指示に従った。

一歩だけ前に進んで、手を脚の前で軽く組んだ。

何十人の人の視線が女性を刺す。少し緊張した。

声がしっかりと出るように一度間をおいてから喋りだす。


「…柳瀬 春深です。どうぞよろしく」









Summer
4:――風邪――

Presented by 三式










「…ぅ、ん……」

不快感に耐え切れなくなり、夏姫は呻き声を出した。

額からは汗が滲み出していて前髪が張り付いている。胸元の赤いTシャツは汗で黒ずんでいて、それだけで水分補給が必要だとわかる。

だがそんな状態でも夏姫は自力で身を起こそうとはしなかった。否、起きれないのだ。

身体中が疲労感を訴えていて頭がガンガンと響く。指の一本さえ動かすのが億劫だった。

Tシャツの中に提げている細いネックレス状のものが汗で胸と一体化する。

その部分だけ湿っぽくなって、それがさらに不快感を増幅させた。

外したいと身体が叫ぶ。だが腕を動かすことさえできなくてそれを外すことはできなかった。

じっとりと身体が湿り、体温が上昇しているのが分かる。

朝はソファーの上でうつ伏せになっていたはずなのに、今はフローリングの上に倒れこんでいた。

恐らくは身体が無意識に木の床の冷たさを求めたのだろう。

夏姫の身体がごろりと動いた。

先程までいた場所は既に夏姫の汗で濡れていた。

転がったときに胸元にあったネックレスの先端が夏姫の薄い胸板に刺さった。

痛いなどとは思わない。

感覚が鈍くなっているのか、そう感じた。

鉄製のテーブルの脚に夏姫の顔が当たった。ひんやりとしていて気持ちがいい。

だが、まだ頭が痛みを訴えているのは変わらず、再度夏姫は意識を手放した。




















―――……これは、夢、だろうか。

沈んだ意識の中で夏姫は初めて自分の意見というものを出した。

ただ何故なのか口は動くことはなかった。唇が自分のものじゃないように重くなっていて喋ることができない。

そういえば脚も地面にくっ付いているような感じがする。

試しに一歩踏み出してみたが恐ろしいほどの体力を消費した。足首に重石が付いているようだ。

喋ることも歩き出すこともできず、夏姫はただそこに立ち尽くしていた。

真っ白な世界。

物質というものは夏姫以外に存在してなく、空気すらあるのか疑問に思えてくる。

これが本当の『夢』という世界ならば自分がいつもみているものは何なのだろうと思った。

何だか考えるのが馬鹿馬鹿しくなってきた。不確かなものを究明するのはお偉い科学者だけで十分だと結論付けて夏姫は一度目を閉じた。

ほんの一瞬だったはずだ。その行為は。

だが、瞼を開くその作業にはえらく時間がかかった。

――― 眩しい…―――


瞼を閉じていても感じられるその光は開いた瞬間に最も 輝きを強く感じた。


そして、視た。


つい先程までは眩しいほどの光を放っていた空間は急に闇に変化し、それが夜を連想させた。

夜。そう、夜。

今は闇が何もかもを覆い隠すのを知っている。

暗い。くらい。クライ。

目線だけを動かしてみると、そこは見覚えのある場所だった。

畳張りの部屋。目の前には箪笥が子供用と大人用に二つ並んでいて、その右には窓と化粧台があった。

部屋の真ん中には 布団がこれも二つ並んで敷かれていた。

左が子供で右が親なのだろう。どこか確信に満ちた考えを夏姫は持っていた。

それもそのはず。


―――だってここは嘗て俺が住んでいた―――


目は異様に冴えていた。畳の線の隅々まで見えるような気までした。

布団に視線を向けると、片方のそれだけが盛り上がっていてそこに人が寝ているのがはっきりと分かる。

子供だ。小学生ほどの男の子が無防備に口を軽く開きながら寝ていた。

それはまるで白雪姫のよう。棺の中でバラに囲まれ何も知らず寝ている王女のようだった。

誰にも邪魔はされない。

ピンチになったら王子様が助けに来てくれる。

彼にとっては母親という王子様が―――


―――見たくない。嫌だ、見ていたくない。


目を閉じようとしたが、それはできなかった。嫌が応にもその後の光景を見せられてしまう。

塞ぐことができないのなら、目を逸らすことができないのなら、視力なんてなくなってしまいたいと思った。


サァ―――と後ろの方で襖が開く音がした。

それを開いた人物は音を立てずに慎重に子供のいる場所へと向かった。

脚は細く、背中は小さかった。どこか頼りなさそうに見えるその女性はその瞳から涙を流していた。

女性はその子供のほうへ辿り着くと、優しく、幸せそうに眠っている子供を優しく撫でた。

その仕草は赤ん坊をあやす優しい母親のままだった。

涙を流しながら、布団に染みを作りながら。さらさらとした細い髪を梳いていく。


―――やめて。そんなこと、しないで。


いつまでも。いつまでも女性はその行為をやめようとはしなかった。

泣きながら、されど声は出さずに。

ふと、男の子が寝返りをうった。びくりと女性は反応して手を離す。


「ぉ…かぁ、さ…ん……」


「……ぅ……っ!」

強烈だった。少年が言ったその言葉が胸に突き刺さった。

『お母さん』と。

求めるように、媚びるように。そう少年は言った。

「(……ダメだ……)」

泣いてはダメだ。安らかに眠っているこの子を起こしてはいけない。

そう思うが目頭は熱くなっていく一方だった。

喉の奥が痙攣して、嗚咽を止められない。

「ごめんね……ごめんね……っ」

腕は布団に伸びていて、軽くだがしっかりと少年の身体を抱きしめていた。

涙は止まらない。だけどそれを止めようとはせず、女性はいつまでも同じ言葉を呟いていた。

「ごめんなさい……」

ずっと一緒にいたい。離したくはない。目に入れたって痛くはないのに。

あと一言。一言だけでいい。

ただ『お母さん』と言ってくれたらもう離しはしない。


「……………すぅ………」


そんな女性の気持ちは届いてはいなかったのか。少年はそれきり口を開こうとはしなかった。

すぅすぅと寝息を立てているだけ。

穏やかに眠る少年の顔をしっかりと瞼に焼き付けて、彼女はゆっくりと立ち上がった。

袖でこぼれた涙を拭いて、入ってきたときと同じように音を立てずに歩いていく。


―――待って、行かないで。俺を置いていかないで……!


「さよなら、夏姫…………」



















* * *



















ピンポーン……ピンポーン…!

呼び出しのベルが夏姫の部屋に鳴り響いていた。無論、押しているのはさくらだ。

時刻は午後五時前。まだ明るい時間帯だ。

「…出ないなぁ」

さくらは一人そうごちた。さっきから呼び鈴を何度も鳴らしているのに誰も家から出ていない。

両親が共働きでなかったら母親か誰かしらが出てもいいはずなのだが。

もう一度、鳴らしてみる。だが誰も出てくる気配はなかった。

どこかに出かけているのかもしれないと思い、プリントをポストに入れておくことにした。

カタンと音を立てて紙が落ちていった。

―――ただ届けに来ただけだったか……

何か、期待していたのかもしれない。呼び鈴を鳴らして少し待てば夏姫が出てきて。そしてその後他愛もない話をして。

ここに来たことを無意味にしないことを期待して。

多少落胆して、最後の抵抗としてドアノブを下げた。開くはずがないと思いつつもそうしてしまった。


ガチャリ。


「……………………え?」


開くはずがないドアが何故か開いてしまった。隙間から家の中を覗いてみる。

だけどそこには誰もいなくて、少なくともそのドアはさくら自身が開けたものだと証明していた。

―――…………―――

無音。

家の中からは何の音もせず、聞こえてくるのは後ろからの街の喧騒だけだった。

誰もいないのかと思いドアを開いて玄関口に入ってみた。パタンとドアが閉まり、外界からの騒音はシャットダウンされた。

「夏姫……くん?」

小声で呼びかけてみる。しかし、何の返答もなかった。

だが足元を見てみるとそこには夏姫のものだと思われる黒いローファーだけが脱ぎ捨てられていた。

他の靴は見当たらない。靴箱なんてものは見当たらず、本当にその一足しか玄関にはなかった。

おかしい―――と感じた。

だって普通の家だったら靴箱くらいあるはずだし、仮に無くても家族の予備の靴くらいはあるはずだ。

「(それに……このローファーは夏姫君のもの……?)」

そうとしか考えられなかった。それにいつもこれを履いているのだと、そう確信した。

予備のものなら普通はこんな風に脱ぎ捨てられているはずがない。

恐る恐る自分の靴を脱いだ。勝手に家に入った所為かこそこそとしてしまう。

お邪魔しますと小声で言ってから冷たいフローリングの上を抜き足で歩き出す。

何mか進んで途中にあったドアノブに手をかけた瞬間。


ガチャンッ


「っ!?」

ドアを開けた音ではない。まだ手は捻っていない。じゃあ何の音だ。

この甲高い金属系の音は…。

一度止まった手を動かし、ドアを開く。むわりとした空気が不快で目を瞑ってしまった。

それも一瞬のこと。すぐに瞼を開いて、部屋の中を見回した。

そこにはテーブルから落ちた空瓶と、フローリングに横たわった青い顔をした夏姫が―――!


「なっ、夏姫……くんっ!?」


駆け寄る。バタバタと鈍い音が鳴るが気にしない。それよりも夏姫の方が気になる。

何があった。どうしてこんなところに倒れている?

「……ぅ…あ……」

「どうしたのっ! 大丈夫っ!?」

身体を揺すって呼びかける。何度も何度もそうするが夏姫はぐったりとしたままだ。

「大丈夫っ?」

「…………」

反応はない。時折苦しそうに顔を顰めるだけだ。

―――どうしたんだろう。

外傷は見当たらないから強盗に入られたわけではない。じゃあ何が…?

「………っ?」

兎にも角にもまず身体を楽な姿勢にしてやろうと上半身に触れたときに気づいた。夥しい量の汗に。

―――風邪?

そうとしか考えられなかった。だってこんなに汗をかいてるし、熱だって……

「熱っ…。何この熱さは……」

尋常ではない。いったい何度あるというのか。

「……それより」

頭の中は何故か冷静だった。風邪だと判断したからか、それともさくらがこういう事態に慣れているのか。どっちかは分からなかった。

ただ、それよりも今はこの状況を何とかするのが先決だと判断した。


タオルに冷水をつけてから夏姫の頭に乗せる。さくらの力で隣の部屋まで夏姫を運ぶのは無理なので少しだけ動かしてカーペットの上に寝せた。

タオルを乗せると夏姫の顔が幾分か落ち着いた。冷たくて気持ちがいいのだろう。

次にYシャツのボタンを外し、苦しくないようにした。

そして空タオルを用意して、汗を拭いた。

顔から首へ。そしてはだけさせた胸へと。

……と、気になるものがあった。

「……なんだろ、これ」

不思議に思って手に取ったものはシルバーのネックレスだった。

それだけならただのアクセサリーだと判断して気にも留めないのだが、先端にあるものに気をとられた。

「……古い…鍵?」

それは少し錆付いている2cmほどの小さな鍵だった。玩具の箱に使うような小さな鍵で、とてもアクセサリーに使えるとは思えない。

じぃと夏姫の顔を見つめる。

確かにシルバーリングとかのアクセサリーは似合うと思う。だが玩具で遊ぶようなタイプにはとても見えない。

ベタベタと肌にくっつくのでさくらはそのネックレスらしきものを夏姫の首から外し、ポケットに入れた。

それが何の鍵なのかは気になったが、まず夏姫の看病をしなくてはいけないと思い中断していた汗拭きを再開した。

胸を拭き終わり、腕を拭いた。そして最後に再度顔を拭いて終わりとする。

「……よし。後は……」

悪化するといけないと思い、タオルケットか何かをかけようとする。あたりを見回すがそれらしき物体は見つからない。あるのは小奇麗な部屋のみだ。

「向こうのクローゼットの中かな……」

立ち上がって隣の部屋に向かう。クローゼットを目の前にし、少し躊躇する。おせっかい過ぎるかもしれないと今更ながらに思うが、仕方がない。

できるだけ音を立てないように手を引いた。簡素な空間が晒される。

中は二段構成になっていて下が物置のようになっていて、上にブレザーやシャツなどがハンガーに掛けられていた。

下の段からタオルケット探し出す。ふと、脚に何かが当たった。

何かと思ってそれを手に取ると、それはアルミでできている箱のようだった。

「……これ」

蓋のところに鍵穴を見つけた。

「鍵穴…もしかして」

―――玩具箱だ。

その答えに疑問は一切抱かなかった。そしてさっきの鍵がこれと一体だったことも。

ポケットから先程取っておいた夏姫のネックレスを取り出した。必要なのはチェーンではない。その先にある小さな鍵だ。

ごくりと喉がなる。ここまでくるとほとんど犯罪行為に近い。

その良心がさくらの腕を躊躇させるが好奇心には敵わなかった。震える手で鍵穴に差し込む。

ぴったりだ。鍵を右に回すとかちゃりと何かが外れる音がした。


そこには、一枚の写真が入っていた。写真の裏には『ごめんね』の一言が。


何年も前の写真だ。日付は載っていなかったが、日焼けしているところからそれが分かる。

写真に写っていたのはホテルをバックにしている男の子と、子供を抱きしめている母親らしき女性の二人だった。

「……この男の子は……夏姫くん…?」

そう確信するのに時間はさほどかからなかった。

そして、その隣にいるのが夏姫の母親だということにも。

写真の中の夏姫は相変わらず無愛想に見えた。カメラから視線を外し、口を尖らせている。

だが嫌そうな顔には見えなかった。ただ照れているだけなのだろう。

目を瞑ってその場面を想像してみた。旅行に行って、ホテルの前で幼い夏姫が母親に抱かれて照れている場面が鮮明に浮かび上がった。


―――ダンッ!


「―――っ!?」

急な物音にさくらの身体が跳ね上がった。

思わず手に持った写真を抱きかかえ隠してしまう。一度深呼吸して後ろを振り返ると夏姫が苦しそうな顔で立ち上がっていた。

青褪めた顔で辛そうにしている。さくらが拭いた顔から汗がにじみ出ている。

よろよろと 夏姫が歩き出した。どこに向かうつもりなのか。目を瞑ったまま歩いている。


ぐらり


「うぉっ」

倒れる。身体がだるくて防衛機能が働かない。手を伸ばすことすらできなくて夏姫はなすすべもなく床へと倒れこんだ。

「夏姫くんっ」

さくらが思わず駆け寄った。大丈夫、と声をかける。既に、写真のことは頭から離れていた。

その声が聞こえたのか、夏姫は薄く目を開いてさくらをみた。

「…………安藤? どうして、ここに……?」

それだけ喋るのが精一杯だった。夏姫はぐったりと顔を床につけた。

ただ目は軽く開いていて、どうにかさくらを視界の中に入れているのが分かる。

「…それは後で話す。とりあえず、今は寝たほうがいいよ」

限りなく優しい顔でさくらはそう夏姫に声をかけた。

夏姫の手をとって両手で掴む。そして優しく大丈夫と囁いた。

「…………」

それで安心したのかは分からない。ただ、夏姫の顔は穏やかなものになっていき、次第に開いていた目を閉じていった。


―――かあ…さん


堕ちていく意識の中、夏姫はいつかの母の顔を見たような気がした。


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