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「…………疲れた」
春深はもう口癖になってしまっているその言葉を吐き出した。
疲弊した顔を隠しもせずに夜の道を歩く。
時刻は既に0時を回っていて、辺りを見回しても明かりが点いている家は殆ど見当たらない。
「……はぁ」
会社の宿舎を目の前にして春深は立ち止まった。
家にすぐに入る気にはなれなくて春深は天を仰いだ。
月と星と闇の空のコントラストが綺麗過ぎて自分が惨めに見える。
何を、今は何のために生きているのだろうか。昔はその答えは直ぐに導き出せた。
どんなに辛くてもあの子が笑ってくれるなら。どんなことにでも耐えられた。
だが今は。今はどうなのだろうか。どんなに頭の中をフル回転させてもそれは出てこなくなってしまった。
―――一目だけ。一回だけでも……。
今は離れてしまったあの子を求めようとしたココロを冷たく封印させた。
今更、今更何を―――。
頭を振って、春深は暗い家の中に入った。
「…………疲れた…………」
Summer
5:――独りは寂しいとココロが叫ぶ――
Presented by 三式
2時間ほど経って夏姫は目を覚ました。辺りが窓の外は暗くなっていて夜だということがすぐに分かった。
「…………」
喉が渇いてしょうがない。口の中はカラカラで水が飲みたくてしょうがなかった。
「…………ぁ、れ?」
立ち上がろうとしたが、力が入らなくてそれをすることはできなかった。
水分が欲しいのに自力では水を飲むことはできない。仕方なしに唾を飲み込もうとしたがそれすらもできなかった。
喉が渇ききっていて声を出すことも辛い。死んでしまうのかと錯覚した。
まるで砂漠にでも行った様な気分だ。
ふと、どこからか香ばしい匂いがするのに気づいた。
窓は閉まっていて外からではないことが分かる。じゃあ家のキッチンからかと思ったが、家には誰もいないはずだ。
自分は一人暮らしだし、誰か知り合いが来ているのかと思うがこの街には自分の住所を知っているのはほとんどいない。
いったいどうなっているんだと思ったとき、目の前に何かが現れた。
「…………?」
黒いソックスらしきものと、その奥には肌色に伸びる人肌。
そして―――
「あ、起きた? よかった……このまま起きないかと思っちゃった。体調はどう?」
聞き慣れていた声がした。他の、自分なんかよりは高いトーンの声が。
透き通るような声が真上から聞こえてくるが顔をあげることはできなかった。だって、目の前の光景が凄すぎて。
どうしたの?と心配するような声が聞こえてくる。だけどその言葉にも反応はできなかった。
身体がその情景を目に焼き付けようと必死になっていている。顔を動かすことはできなかったが、口だけは動いた。
そこから出た言葉がとんでもないことだったことにその時は気づかなかった。
「………………………………みずいろ」
「…は?…………って! 何見てるの!」
バシッ!
「ぐぉっ」
夏姫の頭にさくらの平手が炸裂。
そして―――再々度夏姫は意識を手放した。
* * *
「むぅ……」
「あ、起きた? ごめんね、さっきは叩いちゃって」
10分ほどして夏姫は起き上がった。頭が少しぐらぐらするが耐えられないことはない。ごしごしと目を擦ると見覚えのある顔が目の前にはあった。
「……あれ? 安藤…どうして?」
「んー、それよりお腹空いてないっすか?」
「腹?」
言われれば…と片手で自分の腹部をさする夏姫。そういえば先程から何やらいい匂いが鼻につく。
くぅと小さく腹がなった。
「あははっ、じゃあちょっと待っててね」
「ん…?」
そう言ってキッチンへと向かうさくら。鼻歌混じりにコンロの火をつける。クツクツと煮えてきたところで火を消し器に粥をよそった。
あちちと呟きながらそれを持ってくる。
「はい。どうぞ」
夏姫の目の前にそれが置かれた。
卵粥だ。白いご飯の中に黄色く彩られる卵が食欲をそそった。
「へぇ……」
思わず感慨のため息が漏れた。
目の前で何故かにこにこと微笑んでいる目の前の人物。それはさくらに他ならないのだが、何かいつもと違ったものに見えた。
料理なんてするタイプじゃあない……とは思わないのだが、夏姫のイメージとは多少食い違いがあった。
―――どっちかっていうと食べるの専門な感じだし……
「ん? 食べないの?」
「あぁ、いや、食べるよ」
いただきますと手を合わせ差し出された蓮華で掬う。口に入れると熱さと美味さが同時に広がった。
―――あ、美味いな。
別に不味そうだとは思っていなかったのだが、普通に感心してしまう。
食欲はあまりないはずなのに、鍋の中身がなくなるまで夏姫の手が止まることはなかった。
「…………ふぅ、ごちそうさま」
「ん」
気がつくと何やらいつの間にか綺麗に平らげていたことに気づいた。
「勝手に冷蔵庫とか開けちゃったんだけど……よかったかな?」
「いいよ別に。どうせ大したものはないんだし、それに美味かったから」
「ならいいんだけど。……それで、具合はどう?」
恐る恐る訊いてきたさくらに夏姫は「何とか大丈夫」と答えた。
「それより、どうして安藤は家に?」
第一にその疑問が頭に浮かんできた。
家の場所を知っていることも不思議だったのだが、それ以前に何の用があってここに来たのか。
夏姫はただの高校生だし、さくらとも特別な仲であるわけでもない。
そんな関係なのだからさくらがわざわざ夏姫の家に来るのはおかしい。
「うん、これなんだけど……」
そう言ってさくらが鞄から取り出したのは一枚の紙だった。それは三者面談の通知を知らせるためのもの。
「先生がさ、夏姫君の家に電話しても誰も出ないからって。それで私に持っていってくれって」
「あぁ……」
さくらから紙を受け取り、ざっと中身を読む。
―――今年は、どうしようか……。
そんなことを考えた。
三者面談というのは教師と生徒。そしてその親が面談をするものだ。進路のことや生活のことを話し合う場。
それは生徒自身の問題なのだが、進学にしても生活にしても親の存在はなくてはならないものである。
進学の場合は学費のことであるし、生活の場合は家でどんなことをしているのか等と、常に『親』というものが付いて回る。
だが夏姫には親といえるものがいない。
担任にもそのことは言ってはおらず、毎年なんとかしてこの行事を乗り切ってきた。
去年は親が出張でいないとウソを吐いたのだが、今年はそんなことは通じない。
高校2年生だ。あと半年もすれば受験生になるのだし、就職にしたら1年と期間はない。
今は重要な時期だ。
親が来られないという言い訳は通じるはずもない。
―――どうする……。
沈みかけた思考だったが、さくらの言葉によって引き戻された。
「ね、夏姫君。私、そろそろ帰らなくちゃいけないんだけど……大丈夫かな」
「え? あ、あぁ……」
時計を見ると既に時刻は7時を回っていた。
春はもう過ぎているのでまだ日は完全には落ちていない。未だに空は明るかった。
門限でもあるのだろうか。さくらは何度も時計を見ていた。
「じゃあ、最後にこれ片付けるね」
かちゃかちゃと音を立てて食器を片すさくら。何の失敗も犯さずテキパキと進められる作業。慣れきった様子が、いつかの母とダブった。
最後に水で洗剤を落とし、作業を終えた。タオルで手を拭いてから戻ってさくらはバッグを手に取った。
「…………ぁ」
帰り支度をしているさくらの姿に夏姫は言い様のない寂しさを覚えた。
行かないで欲しい、一人にしないでと云う様な感情が押し寄せてくる。手が思わず伸びそうになる。
だが、歯を食いしばってそれを堪えた。
さくらにも都合というものがある。自分の我侭をす通すわけにはいかない。
「じゃあ、またね。学校で」
「……あぁ、また」
玄関まで送るということはしなかった。できなかった。そこまですると我慢ができなくなる。
それに、仮に引き止めたとして何をさくらに求めればいいのか。
母の面影を見たからといって彼女に代わりを求めるということはさくらに対して失礼だ。
それに―――自分は一人でも大丈夫だ。
今まで一人で暮らしてきたんだ。風邪だって何回も引いたこともある。それでも一人で乗り越えたきた。
そう、一人でも大丈夫だ―――。
* * *
日が完全に沈んでから数時間が経った頃、さくらは机に向かって手に持ったそれを見ていた。
「…………」
じーっと、じーっと見つめていた。
それは先程隠して持ち去ってしまった、夏姫のたった一枚の写真。相も変わらず写真の中の人たちは幸せそうに見えた。
裏返す。
そして真っ直ぐに目に入ってくる流れるような4文字。『ごめんね』という言葉が。
「…………」
ぎゅーっと胸が締め付けられるようだった。何故かは分からない。
ただ、恋をしたときのような鼓動ではないものを確かにさくらは感じていた。
じゃあこの胸の動悸は何なのだろう。
嬉しい 悲しい 楽しい 愛しい
どれでもない。分からない。どれかがあっているのかもしれないし、どれもあっていないのかもしれない。
だが、静かに、けれどもはっきりとしたものが身体の内側で自己主張している。
「…………」
考えても考えてもその答えは出てこなかった。考えるほど胸の中は霞がかっていき、ついには見えなくなる。
もやもやとした何かを紛らわそうとさくらはベランダへと向かった。
夏前とはいえ、深夜とも言えるこの時間帯は少々寒い風が吹く。―――それが心地よく感じる。
さくらは密かにこの時間が好きだった。
さくらは元々アウトドア派の人間だ。
家の中でテレビを見ていたり読書などをするのは嫌いではないが好きでもない。
テレビよりスポーツのほうが楽しい。
空気の匂いが好きなのだ。
晴れの日は太陽の日差しと暖かな空気が、雨の日はしとしとと降る雨と湿った空気。
特に休みの日の雨の朝が好きだった。
「…………」
さくらは真上で光る半月を見上げた。漆黒の闇の中に不完全な月が見える。
―――届きそう。
昔に読んだ絵本の内容を思い出してみた。あの月ではウサギが餅つきをしている情景が頭に浮かんだ。
そして、いつか自分は天上の世界に連れ去られてしまうのだ。下界に愛しい人を残したまま。
―――はん。
なんてメルヘンな考えだろう。どう考えても私には似合わない。
考えるより私には行動するほうが性に合っている。実際、勉強より体育のほうが好きなんだ。
…あぁ、やっぱり
踵を返して頭を振る。さくらの細い髪がふわりと靡いた。
月光が艶のある髪に反射し、神々しさが見える。
一瞬だけ後ろ側に伸びている暗闇を振り返って、自室のガラス戸を開いた。
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