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真っ白な病室。窓際には花瓶に入ったピンクと白のカーネーションが揺れている。
皆嬉しそうに赤ん坊を見つめていた。
「男かぁ」
「えぇ、大きな男の子ですよ」
看護婦の言葉を聞いて男は大げさにリアクションをした。
「……僕はずっと女の子だと思ってたんだけどなぁ……」
「ふふっ」
安らかな笑みを浮かべる赤子を抱きながら女性は穏やかに笑った。
若い女性だ。ショートカットの髪がよく似合っていて清楚な印象を受ける。
「名前、どうしよっか? 僕、女の子の名前しか考えてなかったよ?」
困ったような顔をしながら頭を掻く男性は、彼女から赤ん坊を抱き上げた。
可愛いと、嬉しいと、愛しいと思った。
「いいんじゃない? その名前でも。大切なのは私たちがこの子を大切に思うかどうかだと思うわ」
「……そっか。そうだよな。その通りだね」
ははっ、と嬉しそうに笑った男性はベッドの淵に座った。3人分の重みでベッドが沈む。
そして穏やかな幸せそうな顔をした男性――父親――は子供と女性に順にキスをした。
Summer
6:――KIZU×NA――
Presented by 三式
「……であるからして、基督教の創造者のイエスは処刑されてしまったわけだが……」
そこまで聞いて夏姫はペンを置いた。辺りを見回せば他の生徒も同じように退屈そうにしている。
また始まったか……。夏姫は時計を見て時間を確認した。10時。授業終了まであと30分も時間がある。
教卓の前に立ち、雑談ををしている世界史の教師は話が脱線することで有名だ。
今日も今日とていつもと同じようなことを繰り返している。
「(……いつもと同じ、か)」
そんなことを、考えた。
この世は、時代は移りゆくもの、変わっていくものだと誰かが言っていた。変わらないものなど無いと。
いつもは他人の言葉などを容易に信じることはしない夏姫だが、この言葉だけはその通りだと即答した。
社会や秩序、そして人の気持ちは永遠ではない。大好きだった林檎ががふとした拍子に食べられなくなったり、大好きな人が急に憎くなる事だってある。
それに対して変わらないものだってある―――そう言った人がいる。
例えば地球が回り続けるように。
―――母親が、子供のことを愛するように。
反吐が出る。地球が止まる筈がないと。母親は子供を必ず愛するというのは誰が決めたというのだ。
そう…仮に、仮にその通りだとしたら何故あの人は俺を置いて行ってしまったのだ。
「…………?」
夏姫が何かに気付いたようにハッと目を見開いた。驚いた顔で手を胸元へと伸ばし、そこに何も無いことを確認した。
―――何も、ない?
触る。無い。押す。何も、ない。いつも提げているはずの鍵が。――大切なものが、ない。
「…………っ」
夏姫は自身の心臓がバクバクと脈打つのを感じた。動悸が早くなる。身体が震える。冷や汗が出る。頭の中が混乱する。
腹の底に鉛を打ち付けられるのに似た感触を夏姫は覚えた。だが、身体は痙攣して動かない。代わりに脳が暴走する。
どうして無い。 いつ外れたのだ。 誰が外した。 何故気付かなかった。
幾十にも重なる疑問の嵐に夏姫は翻弄された。
だから―――
ガタンッ!
走り出した。鞄も持たず、授業中にもかかわらず。
何も構ってはいられなかった。頭の中が混乱していたから、他の事に気を配る余裕なんて有りはしなかった。
夏姫が突然教室から出て行ったことにそこにいた人たちが呆気にとられる。
「どうした?」
いち早く我に返ったのはやはり教師だった。雑談をしていたときの穏やかな表情が一転して険しい顔になる。
…が、夏姫は反応しなかった。教師が声をかけた瞬間にはもう教室から出ていたからだ。
何があったんだ? どうした? 教室中がざわめく。
いつもは大人しい彼がこんなことをするなんて。誰もが予想できないことだった。
ざわめきが止まらない中、彼女は先程の彼の行動の一部始終を思い出していた。
夏姫が何かに気付いたように顔を上げた。自身の胸を触り、何かを確かめた―――と、そこで気がついた。
彼が探していたのは、これなのではないか―――と。
胸ポケットからそれ―――昨日、とってしまったネックレス―――を取り出した。チャリン。チェーンと鍵が擦れて小気味いい音が鳴った。
ドクン
心臓が高鳴る。バクバクと鳴り響いてうるさい。確信する。やはりこれがキーなのだと。
強い罪悪感が自分を苛める。今すぐ走り出したい。すぐに追いかけたい。
だが、できない。追いかけたとして、一体何を言ったらいいのか。私が盗ったのと正直に言えばいい問題なのか。
ズキズキと痛んでくる心臓を、大きく息を吸って押さえつける。そして―――「ごめんなさい」と小さく呟いた。
* * *
「クソッ」
弾む胸を押さえて夏姫は毒づいた。息が切れて苦しい。時刻は既に11時を刺していた。あれから1時間が経っていた。
元々運動をする性格ではないので体力がないのだ。だがそんなことを言い訳にしても、少し走っただけで重くなる体が恨めしい。
見つからなかった。通学路、家、歩道橋、その他色々。思いつく限りの場所は探したが、どこにも目当てのものは見当たらなかった。
ぐしゃりと髪を掻く。
思い出せ、考えろ。昨日までは確かにあったのだ。昨日、俺は何をしていた?
―――昨日。朝起きて、シャワーを浴びた。その後は、疲れて寝てしまって……そしたら安藤が来ていて。
「……誰かが……取ったのか…?」
打ち消した。改め直す。誰かが、ではない。さくらが取ったのだ。そうとしか考えられなかった。
夏姫は一瞬だけ怒りを感じ、その後は安堵感に浸った。鍵は無くなったわけではないのだ、と。
その女性はそこから一歩も動き出すことができなかった。全身がカタカタと震えて瞳孔がこれ以上ないというくらいに広がる。
腕に持っていたバッグを落とさなかったのが奇跡といえる。それほどまでに誰が見ても彼女の姿はこの場では浮いていた。
ドクドクと心臓が高鳴ってうるさいと感じた。だがあくまで感じただけだ。考えてる余裕なんて彼女にはそのときはなかった。
周りに響いていないか心配だと彼女の中の理性が叫んでいた。彼女の隣では連れと思われるもう一人の女性が怪訝な顔をしていた。
どうしたのと不思議に思ったその女性は彼女にそう問い掛けた。だが、彼女は振り返ろうともせずに眼前の光景に釘付けになっていた。
目の前―――それほど近くはないが―――には電柱に身体を預けている学生服の青年がいた。
青年は弾んだ心臓を押さえようと深く息を吐いていた。風で彼の髪が揺れる。前髪に隠れていた眉と目を見た瞬間、彼女は確信した。
いや、とうに確信はしていたのかもしれない。その証拠として彼女の心臓もまた凄まじい動悸を繰り返していた。
―――夏、き。
脳内で3文字の言葉がジグソーパズルのようにかちりと嵌る。
涙が出そうになった。驚きと、懺悔と、安堵感で。
「―――春深! 何してるの!?」
はっと春深は声をかけたその女性のほうを漸く向いた。
「え……何?」
「何?じゃないでしょう。いきなり立ち止まって如何したのよ」
「ちょ、ちょっとね……」
先程まで見ていたその場所に再度目を向けながら春深はそう答えた。
ちょっとと言いながら春深は気にせずにはいられない。昔からずっと気になっていた人がそこにいるのだ。
手放したくない、何があっても。だけども手放してしまった愛しい息子が目の前に。
「…………え?」
しかし其処には既に誰もいなくなっていた。
目を擦る。だが何度見直してもそこには壁と、灰色した電柱しか存在していなかった。
何故?と自問する。
愛しい息子はどこに行ってしまったのだろうか。私に気付いてはくれなかったのだろうか。
―――答えは誰も教えてはくれなかった。
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