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あぁ……眠れない。
目を閉じてみても睡魔は一向に襲っては来ず、逆に瞼の裏はさながら映画館のような風景を映し出す。
観客は自分一人。幕が開く。映像が映りだす。再度暗闇へと変わる。何秒かして、またそれを繰り返す。
何度見ても、投影される人物は、成長した青年だけであった。








Summer
7:――Call your name――

Presented by 三式







コンビニでのアルバイトを終えた夏姫は深夜の歩道を闊歩する。コツコツと革靴が鳴らす音はどこか耳に優しい。辺りは街灯と既に寝静まっている民家だけだ。そんな穏やかな雰囲気だというのに、夏姫の顔はどこか浮かない。

「…………」

夏姫は一つため息をついた。それは一日の疲れを吐き出すものとは違い、無意識のうちに出るものに酷似していた。
夏姫の瞳は前を向いているが、どこか上の空な感は否めない。仕事中にもどこかに意識は飛んでいて、客や店に迷惑をかけてしまった。
叱られて、そして気を引き締めてみてもすぐにまたぼーっとなる。店長曰く今日の夏姫は使い物にならなかったそうな。
それもこれも、この胸元の寂しさの所為だ。
いつもは当たり前にあるものとして、時には独りだということをまざまざと感じさせるものものが、ない。自分にとって空気のようなものだったそれがないということが、こんなに影響させるものだったなんて。いや、空気だったから、なくてはならないものだから、こんなに心を掻き乱したのか。
夏姫は自分の胸元を見た。
Tシャツの襟元を伸ばすと、筋肉の付いていない貧相な胸が見える。
弱々しい胸だ。前々からそうは思ってはいたが、いざ見返してみると改めてそう思う。それもそうである。部活なんて一切してこなかったのだから。
それは金銭的問題故でもあったし、一番の原因は頑張っても、充実感を得られるものではなかったからだ。
確かに中学のときは保護者といえるものも一応いた。
いや、あれは保護者と呼べるものだろうか。
週に3日ほど夏姫の部屋へとやってきては、状況確認と日持ちする食料を置いていくだけ。
それならばただ黙って仕事を完遂してくれればよかったのだが、彼らは部屋に閉じこもっている夏姫に聞えるように舌打ちをして出て行ったりするのだ。
そのたびに夏姫は、苛立つ気持ちと共にどうしようもない孤独感を味わった。

どうして俺は一人なんだろう、どうして誰も優しくしてくれないのだろう。

何か悪いことをしたのか? 誰かを傷つけたのか?
そう考える都度、夏姫は胸元にあるあの鍵を握り締めて感情を抑えたものだった。
無意識のうちにその行動を夏姫はやっていた。シャツの上から、それが皺になることも全く考慮外で、力の限りにぐっと掴んだ。
そして、そこにそれがないことを実感する。
それはお守りともいえる存在だったのかもしれない。その鍵で堅固に胸中を晒さない様に施錠をし、更なる孤独を感じさせないようにする。もう誰からも影響されないようにすると。誰の好意も受け付けはしないと。
一般から見ればそれは逃避や最低な自己防衛だと思われるのかもしれない。だがしかし、それが夏姫にとって一つの防衛策だった。
信じたくない。信じれば、いつか裏切られる。だったら、受け付けなければいい。そう考えるしか幼い夏姫にはなかったのだ。

そこまで考えて、意識したくない、と心が叫んでいるのを夏姫は聞いた。

それはいつものことだった。
あの人のことを、母親のことを思い返すたびに心が締め付けられるような感覚が自身の体を襲う。痛い、寂しいと叫んでいるのだった。
そうして夏姫は耐え切れなくなって度数の高い酒に救いを求める。あおる様に呑んで、体を酔わせてしまうことで対処してきた。
だが、今日のそれは段違いだった。
半端ではない寂しさ、切なさが降り注ぐ。すぐにでも走り出して誰かにすがりつきたくなるくらいに孤独感が満ち満ちてくる。

「うっく…あぁ……」

掠れるような声が出る。鼻の奥がツンとして、唾を飲み込む。
ついに夏姫は歩みを止めた。胸元を、何もないその胸元を握りつぶすかのようにぐっと掴む。

かあさん、かあさん、かあさん―――っ!

胸の奥で表面上の彼を殺そうかの勢いで何かが叫ぶ。
それは、紛れもなく夏姫の本心というやつで。

そうして夏姫は一粒の涙を流したのであった。






先日に続き、さくらは眠れぬ夜を過ごしていた。

入浴を済ませ、その短い髪を乾かし終わり、いつもだったらそこで眠気が襲ってくるはずなのだが、今日はそれがない。
気晴らしにテレビを点けてみても特に彼女が惹かれる番組はやっていなかった。面白くもない洋画の番組だったり、中堅どころの芸人のバラエティ番組ばかりだった。
特に芸人には興味も沸かないし、吹き替えであっても英語が嫌いな彼女が洋画に心惹かれるわけもない。

「ふぅっ」

息を吐いてテレビを消した。

「…んー」

そうして本棚の方向へと体を向け、何か気を紛らわせるものはないかなーと思いながら物色。
既に時刻は深夜1時を回っている。こんな時間から活字を読もうとは思わないので軽く読める漫画を探したが、もう何度も読んだものだった。
ダメか、と一人呟いて彼女はベッドへと飛び込んだ。

「んー、ぅー」

何語?と突っ込みを入れたくなる声をあげながらさくらはベッドの上を転がりまわる。
ごろごろ。ごろごろ。

びたっ!

「あうっ」

壁に鼻をぶつけた。鼻の頭が赤くなって、じんじんする。
すごく、いたい。

いててと軽く涙目になりながら彼女は机の上にある手鏡を取った。鼻血が出ていないことだけ確認する。
と、傍に女みたいな名前の癖に男な持ち主のアクセサリーがあることに彼女は気付いた。
古ぼけた、少しだけ錆付いたおもちゃ箱の鍵。鏡を置いて、代わりにそれを手に取る。
チェーンの先を持って、掌にちゃりちゃりと音を鳴らしながら畳んでは、また持ち直して手の上に織る。

一体、どれほどの力がこれに眠っているというのだろう。
今まで自己主張もせず、あくまで空気を貫き通してきた彼が取り乱すなんて。
話しかけても、話しかけても端的な言葉しか返さない彼があんなことをするなんて。

どうしてだか、さっきよりも頭が冴えていることにさくらは気付いた。
透き通る思考は同じ人、同じことしか映し出さない。
目つきが細くて、髪は垂れ流しで、そこそこなんでもこなすくせに、自分からは人に話しかけない。
身長だけは男の癖に名前や線の細さは女子並み。
そんな無口で愛想悪くてアンバランスさが過ぎている野郎の、突拍子もない行動、そして心情。
そればかりが頭の中をぐるぐると駆け巡る。

そこまで考えるのは彼女の責任感の強さゆえである。
ひょんなことからその鍵を手にしたことが原因である。

すりすりと鼻筋を摩りながら、さくらはベッドへと戻った。
電気を消し、毛布に包まれながら横向きに寝転がる。

「いったいなぁ、もう……」

暗闇の中、明らかに自分の所為なのにまるで他人がやったことのように非難する姿は少し奇妙だった。
無論、一人であるからだった。








ガシャン!と割れ物が真っ二つに折れる音が部屋に響く。
破片は飛び散り、転がる。

「あら、いけない…」

蛇口から出続ける流水を止める春深。いけないと自分をたしなめるも、その動作は鈍い。
手元から落ちた皿は元は高級感漂う一品であった。かといって新しいわけでもない。古さゆえの美しさを称えていたものだった。
それは今は遠き父、母からの贈り物だった。今はもう連絡すら取ることの憚れる両親から貰ったものである。春深はそれを大事に、大事に使ってきた。

春深は何を思ったか―――何も考えていなかったのか―――素手でその破片たちを拾い始めた。

「…痛」

さくりと拾い上げた指先が切れる。赤い血が出てさらに床下を汚す。
春深はその痛みで我に返る。

何を考えていたのだろう。
誰のことを思っていたのだろう。

大切に大切にしてきたものを壊してしまってもなお慌てることなく、上の空のままだったなんて。
それはやはり昼間に見てしまった遠く、離れている息子のことだった。

しっかりとご飯は食べているのだろうか。
友人は多いのか。ガールフレンドの一人でも出来たのだろうか。
学業には励んでいるのだろうか。
寂しがっていないだろうか。
誰かが傍についていているのだろうか。
悪い方向へと足を踏み入れていないだろうか。
何よりも……元気に、健康で暮らしているのだろうか。

「…………」

何を、何を考えているのだろうか。
手放してしまった、それがどんな理由であれ自ら一人にさせてしまった息子のことを自分に心配する権利など有りはしないというのに。
春深は自分がどんなに卑しく、どんなに最低なことをしてしまったのかと自分を責めた。

今、この場で、自分が息子である夏姫のことを考えることすら許されないことなのかもしれない。
自分に夏姫のことを考える資格すらないのかもしれない。

春深は箒をちりとりを持ってこようとしたが、たかが3週間の出掛けである。わざわざ家からそんなものを持ってきてはいなかった。あるのはローリングのホコリ取りだけだった。
適当な紙を用意し、怪我した手の治療もせず、一つ一つ拾い上げ、優しく置いていく。
違う場所が切れてしまっても春深は気にせず整理を続けていった。

結局、片付けられるのはこういうものだけ。
息子との関係を繋ぎ合わせることなんて出来やしないんだよ、と痛む指先が忠告しているようだった。

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